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増山城解説ボランティア 曲輪の会

増山城解説ボランティア養成講座の修了生を中心としたグループです。富山県砺波市の国指定史跡「増山城跡」のガイド活動や、関連事業へのお手伝いをさせていただいています。文化庁の「市民から文化力プロジェクト」に参加しています。2020年10月に10周年を迎えました。
メール kuruwano@gmail.com
ホームページURL http://www.city.tonami.toyama.jp/blog/group/kuruwa/
設立日 2010(平成22)年10月
会員数 36名
主な活動 国指定史跡・続日本百名城 増山城の解説/増山城関連及び関係機関の事業への協力
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2019年10月01日 18:02

第11回 増山城戦国祭り

「知の合戦!!城攻めウオーク」問題と解答


問題
1 増山城は砺波郡、射水郡と何群の境にあった?

2 増山城はもとは何という城だった?

3 増山城を3回攻めた戦国武将は?

4 最後の城主の妻で、利家とまつの二女は?

5 増山城の本丸(城の中心)はどこでしょう。

6 増山城は平城・山城、どちらのタイプ?

7 名誉城主の名前は?

解答
 1.婦負郡
 2.和田城
 3.上杉謙信
 4.蕭(しょう)
 5.二ノ丸
 6.山城
 7.春風亭昇太

皆さんいくつできましたか?

次回から数回に分けて解説します。

2019.10.1
          曲輪の会 本保澄雄
  


  • 歴史

2019年02月12日 07:15

 本日は2月12日。前回投稿からはや1ヵ月以上経過してしまった。いつまでも「あけましておめでとうございます」というわけにもいかない。と言ってこの冬場、増山城に特段変わった出来事があったとは思われない。そこでやむなく最近の世間の話題から話を少し伸ばしてみた。

 最近、市の職員に「立ち退きさせてこい。火をつけて捕まってこい」と怒鳴って退職に追いこまれた市長がいたが、戦国時代家臣の屋敷に火をつけた大名がいる。こんな乱暴な大名と云えば織田信長と相場は決まっている。信長の気性をあらわすのによく次の句が引用される。
 鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス 信長
 鳴かぬなら 鳴かして見せよう ホトトギス 秀吉
 鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス 家康

家臣の屋敷に火をつけた事情はこうだ。

 信長は安土に城を築き、一族や重臣たちを山腹に、馬回りや弓衆、小姓たち親衛隊は城下町に集住させた。 天正8年正月29日、弓衆の福田与一の屋敷から出火があった。弓衆の屋敷から出火したことは許しがたい行為であった。一屋敷からの出火が城下町全体を焼きÝ尽くす危険もあったわけだから信長が激怒したのも無理はない。信長は、出火の原因はその家臣が妻子を尾張に置いた単身赴任であり、不慣れな生活が原因であったと断定した。当時、単身赴任という考え方はなく一家忠勤が求められていた時代であった。
 調べてみると弓衆で60人、馬回り衆で60人合計120人もの単身赴任者がいた。
単身赴任をやめさせるため、前々築城地である尾張に妻子を置いていた全ての衆の屋敷をことごとく焼き払い、竹木を切らせた。住む屋敷を失った女房達は、とるものとりあえず大急ぎで安土へ引っ越したと言われている。
 馬回り衆の井戸才助は妻子を安土へは来させず、勤務態度もよくない上に文書偽造などを行ったため1579(天正7)年、自害を命じられた。

岩波新書 千田嘉博『信長の城』、インターネット など



 現在、単身赴任はごく自然に受け止められていますが、信長の時代にも単身赴任があったのは驚きでした。

前田利長は富山城焼失のため、高岡城を築城しました。家臣団434名を引き連れての入城だったのですが、家臣団の家族はどうしたのでしょうかね?

 今は言っただけで職を辞さなければならない時代、当時は実際に火をつけてもも誰も文句を言えない時代。権力者の時代の相違を感じますね。

   2019.2.12       
              

 本保澄雄



  • 歴史

2018年11月01日 10:01


神水鉢C

用途 前回は老松邦雄さんの旗台(旗竿)石 説について書いたが、今回は佐伯哲也さんの塔心礎説について書く。

佐伯哲也さん 塔心礎説

佐賀県立博物館の所蔵する肥前名護屋城屏風には各陣屋の風景を描いているが、同図には各陣屋の門前には1本の旗もたっていなければ旗を立てる石も描いてない。
 大坂市立博物館の所蔵する関ヶ原合戦屏風図は、合戦に近い時期に描かれたと推定されるが、小西・島津・石田の各陣屋が描かれているが旗竿は周囲に設けられた逆茂木に括り付けられている。
神水鉢が旗竿石の可能性は少ない。
 守護・守護代が数百年使用した拠点クラスの城郭には、宗教空間をにおわせる地名が多く残っている。守護・守護代の拠点城郭にはごく一般的に宗教建造物が建っていたことは不思議ではない。
越前一乗谷の朝倉氏の城には宗教施設が建っていた。能登畠山氏の城にも安寧寺屋敷という寺屋敷があった。魚津松倉城にはシュゴジンドウ(?)というところも残っている。
 増山城主郭にも宗教建造物が建っていても何ら不思議ではない。実際の大きさのものではなく小さなもの。ここは宗教空間ですということをわからせるためだけのようなものが建っていたと考えるのが一番素直な考え。

 石の穴に手を入れると深さ24センチ、ちょっとくぼんだ所に5センチの深がある。そこは舎利孔(しゃりこう)と言っておしゃかさんの骨を入れるところである。こういうものを持っているのは古代の塔の礎石である。ここに三重塔、五重塔がたっていた。この石の下に重量物を乗せても沈まないように敷石が見つかっている。
このように見ていくと月時計でも旗台石でもない。ここは宗教的な建物が建っていたと考えるのが自然である。 ということで塔心礎説。

但し佐伯哲也さんは
 観光客には、月時計、旗台石、塔心礎の3つの説を説明し「さてどれでしょう」と言って考えてもらう方が逆襲も受けないし、ロマンがあって面白いのではないか。ともお話されていました。


参考資料 佐伯哲也さん
 『越中中世城郭図面集V』
 講座「増山城の縄張りを読み解く」2013.4.13

 心礎 とは
  ・塔の心柱の礎石。中心に柱を受ける座や孔があるものが多く、奈良時代以前の物では舎利(しゃり)を納めるものもある。デジタル大辞泉
 
・礎石の下にはこぶし大の栗石が詰められる場合が多い ブリタニカ国際大辞典 

 

本保澄雄


  • 歴史

2018年10月20日 21:13

神水鉢について 続き

前回《神水鉢》について記したが、それでは古文書では神水鉢についてどのように記しているのだろうか
 郷土資料館安カ川恵子先生の講座資料から拝借。



平成25年7月 講座「増山城にかかわる伝承」 より

1年中水が枯れないということについて

上記安カ川先生の資料からの引用であるが「・・・俗に此水石中より湧出て四季に絶へずと云余里人に問ふに甚非なり此石吸ほせは重ねて雨降時まで一滴もなししかし至て堅き石にて極暑にも水干ることなしと云」
『越中旧時記』(越中郷土資料館叢書)富山郷土研究会編
 句読点もなく、濁音もなく非常に読みにくい文だが、大体の訳は「石の中から水が湧き出て四季絶えることがないと言われている。自分が里人に聞いたところ、そんな馬鹿なことはない。この石が水を吸い込んでしまったら今度雨が降るまで一滴の水もない。しかしこの石はいたって硬い石なので極めて暑い時でも水が枯れることがないと言った」(意味は本保が勝手にしたので違っているかもしれません。〉

また、佐伯哲也さんは「この石は凝灰岩で透水性がある。スポンジが水を吸うようにして周りの土から水を吸い上げて大体2日間で満水になる。こういうことで夏でも水が溜まっているという伝承が残っている。という説。 
2013.4.13 増山城現地研修から 

(本当に2日間ほどで水がたまるのか一度実験してみたいですね。〉

 増山城リーフレット、大人用、子供用どちらにも神水鉢は書いてはあるがどちらにも1年中水をたたえているとか、1年中水が枯れないというようなことは書いてない。ガイドとしてはこういう伝説があると書いてほしいところだが・・・。

              続く
                 
本保澄雄


  • 歴史

2018年10月11日 08:05

クイズラリー問題と答え(説明)

問5.増山城は平城、山城 どちらのタイプ?
答え 山城

説明

 戦国時代に数多く築かれた城は江戸時代の軍学のなかで研究が進められ二つの分類法が生まれた。
 一つは立地による分類法である。

城の立地による分類。
一般的には「山城」「平山城」「平城」の三種類に分類される。中世から戦国初期にかけては人里離れた山に城を築いたが、戦国時代になると城は領国経営の拠点となったため、次第に人員・物資の運送に便利な平地に移っていった。


山城とは 主に高い山の尾根を利用して築かれる城。地形を利用して各施設が造られるため高度な築城技術が無くても堅固な城とすることができた。大名の拠点としての役割はやがて平山城へ移るが、軍事拠点として戦国時代を通じて利用された。

 平山城
とは 交通の便の良い丘陵地に建てられた城。丘陵の上に曲輪を開いて天守や城壁を造り、丘陵自体を水堀で囲むことが多い。城主の邸宅や家臣団の屋敷なども城壁の内側に築かれ、多くの兵を収容する軍事拠点として機能した。

 平城とは 周囲に城下町を発展させやすい平地に築かれた城。平山城と同様城主や家臣団の屋敷を城壁の内側に配置し大軍の駐留も可能となった。

山城・平山城・平城の区分のポイントは標高ではなく比高。比高100b・比高30bあたりが一つの基準とか。例えば
  犬山城 は標高80b 比高40bで平山城
 大坂城 は標高31b 比高30bで平城
 岡城  は標高325b比高100bで山城
 松山城 は標高132b比高90bで平山城
  松本城 は標高592bという高地にあるが盆地にあり比高がほとんどないため平城

 増山城は 標高124b 比高75bだが山城に分類されている。

北陸3県の名城はどのタイプ?
  日本100名城
    高岡城  平城
    七尾城  山城
    金沢城  平山城
    丸岡城  平山城
   一乗谷城  山城(麓に居館)

  続・日本100名城
    富山城 平城
    増山城 山城
    鳥越城  山城
    福井城  平城
    越前大野城 平山城
    佐柿国吉城 山城
    玄蕃尾城  山城


  
 増山城

 2018.10.13

本保澄雄


  • 歴史

2014年08月25日 13:06

今年の3月、長野県飯綱町の「いいづな歴史ふれあい館」と佐久間安政(金沢城の初代城主、佐久間盛政の弟、盛次)のご子孫にあたる方から「佐々成政」の婿養子だった「佐久間源六勝之」のことについて教えてくださいとのメールが曲輪の会にありました。
詳しいことについては「増山城跡総合調査報告書」の筆者、高岡徹氏に砺波市教育委員会から繋いでいただきました。いただいたメールによって繋がったご縁です。

「史跡増山城跡保存管理計画」砺波市教育委員会によれば、
天正6年に謙信が急死すると、越中の国人衆が織田方に走る動きを見せた。天正9年に孤立した増山城の上杉勢は城に火を放って木舟城に移っている。しかし、木舟城は北陸に軍事展開する織田方の手に落ち、増山城も攻略された。織田方は増山城を拠点にして一揆方の拠点である瑞泉寺を攻めたとみられる。織田の武将佐々成政は天正11年頃に越中を平定し、増山城は富山城を本拠とした成政の有力支城となった。この頃、城を守っていたのは、成政の養子、佐々勝之や直属の馬廻衆であったという。とされている。
では、佐々源六勝之とはどんな人物なのだろか?
ちなみに佐々源六勝之=佐久間勝之は同一人物ですよ!氏族は佐久間→柴田→佐々→佐久間と変わっています。
永禄11年、織田氏の家臣・佐久間盛次の第四男として生まれる。はじめは叔父の柴田勝家の養子となったが、後に佐々成政の娘を娶り、婿養子となった。後に北条氏、豊臣家、蒲生氏郷、徳川家へと主君を変えている。佐久間姓に復したのは、秀吉に仕えてから。
佐久間兄弟は蒲生氏郷に付属し、奥州討伐で戦績をあげ、当時、蔵入地にしたばかりの北信濃(兄、安政に槙島(現在の長野市信州新町)、弟の勝之に長沼城を与えました。秀吉死後は徳川家に仕えました。関ヶ原、大阪夏の陣、冬の陣でも戦績をあげ、再び、北信濃の地を拝領することになりました。
繋がりの中で、新たに解ったこと!
佐久間勝之にとって増山城は人生で最初の守城だったこと。佐久間勝之という共通点で250年余りの年月を超えてご縁をいただきました。
今年度中に、長沼住民の皆様が増山城を訪れていただくことになるかもしれません。曲輪の会皆で温かいもてなしをしたいものです。

飯綱広報紙「いいづな通信」6月号から「マンガ戦国佐久間兄弟」の連載が始まりました。
月1回発行です。増山城は9月号に登場の予定だそうです。HPで発行されたら、皆さんにもお知らせしたいと思います。
  
             曲輪の会 柄崎 文枝


  • 歴史

2014年03月29日 13:09

先日、増山城の最後の伝承者といわれる、Tさん宅へお邪魔させていただいた。なかなか日程が合わず、やっと、やっとの念願の訪問となりました!増山城の魅力を感じるには、曲輪を巡るだけでなく、外街道を、内街道を含め、自分だったらどうこの城を攻めるかという観点で想像力を膨らませることが新しい発見になると思う。冬の間に地元の方に案内してもらい、自分の足で孫次山砦麓から雀坂を抜け、自分の足で街道を歩いてみた、それによって外街道から内街道へ続く道が複数あることが判った。Tさんのお話では、明治以降新しい道がついたことにより、失われた道もけっこうあるとのこと。「上杉謙信による侵攻はどこから行われたのか?」答えは「判らない!」とのこと、富山、婦中方面から、陣取り場を経ての侵攻、その他に放生津から和田川を使っての侵攻も考えられるのではないかということ。陸路だけでなく、海上、河川を使っての侵攻の可能性を考えてもよいのではないかと思った。実際、下山田、東保方面にも密路伝承もある。伝承については「拡大解釈が多いが事実と照らし合わせながら検証していくことが大切」と佐伯先生がいっておれた、想像力を働かせ、様々な可能性を検証していくことが真実に近づくことであると思う。Tさんは、「七曲がり側の橋はダムができる前、10M以上も川が下がっていた」といわれる。七曲がり側の切岸を想像すると、敵兵にとってはものすごい威圧感があったと思う。そのような事実も是非、ガイドに組み込んでほしいとのことであった。語るだけのガイドではなく、感じてもらえるガイドを改めて目指す必要があると感じた。伝承を引き継ぐということは、「自分の故郷に価値を見つけること」「無欲でなければいけないこと」様々のことを教えて頂いた訪問となりました。

         曲輪の会事務局 柄崎 文枝


  • 歴史

2012年02月15日 10:45

日本の家紋は、縄文・弥生土器の文様にその原型を見ることができるようですが、正式には平安時代中期に貴族たちが牛車や装飾品に、目印用として自分のマークを入れたことが発祥とされています。
後に武将たちが、戦場で敵味方を区別するための印として貴族を真似た旗印をつくり、この習慣が戦国時代に全国へと広がっていきました
このように、旗・幕・盾・武具に用いていたものが衣服にも使われるようになります。武家が家紋を礼服につけるようになったのは鎌倉時代からで、当時まだ一般化されてなかったものが南北朝時代になって直垂(ひたたれ:武家社会で用いられた男性用衣服)につけるようになり、これが礼服の始まりになったといわれています。
家紋は、徳川時代には権威の象徴として、元禄時代には町民にも許されるようになり、明治以降になると苗字とともに開放され、代々受け継がれることで家の紋章としての【家紋】が定着していったようです。

曲輪の会 事務局


  • 歴史

2012年02月01日 12:05

 天正十二年(1584)十一月末、富山城主の佐々成政が家臣従者100人ばかりを引き連れ厳冬期の北アルプスを越えるという、前人未到の「さらさら越え」を決行したことにについて、日付や人数等については少しずつのずれがあるが、いずれも大同小異で、天正十二年冬期であることは江戸期に著された数多くの書物によって広く知られている。
 成政はなぜこのような無謀をあえて行ったのか?
信長の忠臣であった成政は、織田家を乗っ取るような秀吉をかねてより快く思っておらず許せなかった。そこで成政は同じく秀吉と敵対していた家康と結び対抗するが、主君と仰いでいた信雄が、突如秀吉と和睦してしまい、これを知った家康も秀吉と敵対する理由が無くなり、和睦を結んでしまう。
 だが成政は「織田家再興」を諦め切れず、家康にもう一度説得しようと思った。ところが家康の居城・浜松へ出る為のルートは、越後は上杉景勝、加賀は前田利家という秀吉方が支配しており、また南の美濃は秀吉の領地ということで、家康に会うには厳冬の雪深い立山連峰を越えて行くルートしか考えられなかった。
 結果として、決死の覚悟で敢行した立山越えだったが、家康の考えを変えることは出来ず全くの徒労に終わってしまう。
 しかしこのことは、一戦国武将の戦国史としてより、日本登山史上初の真冬の北アルプス越えとしての方に大きな意味を持つという。
 だからこそ今でも、往時の装具や大量の食糧等を考えると、厳寒期の「さらさら越え」に疑問視する人が出てくるのかもしれない。
参考:遠藤 和子著 「佐々成政〈悲運の知将〉の実像」

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  • 歴史

2012年01月18日 11:54

 佐々成政が、厳冬期に立山連峰を越えて浜松に向かったと伝わる「さらさら(ザラ峠)越え」について異論を唱える人がいるという。
 その人は大山歴史民俗研究会の久保尚文会長で、松本市に残る地元豪族の文書「榛葉文書」に、徳川家が、佐々家による夏の行脚への便宜を図ったことに対する礼状を榛葉家に送ったとの記述があり、そのことを根拠としているようだ。
 長野県の近年の郷土史研究で、榛葉氏の主君・小笠原氏が、歴史上さらさら越えが決行されたとされる1584年の夏季にのみ、徳川家に仕えていたことが明らかになっており、同年冬には徳川家との主従関係がなく道中の便宜を計ることはありえないとしている。
 また専門家の中には、家康の側近松平家忠が天正12年12月の「家忠日記」に「越中之佐々蔵助浜松へこし候」と記していることから、冬に東海地方に来たことは事実とみるが、冬山の難所である立山・ザラ峠を経たという説には疑問を持つ人も多く、ルートに様々な説が出ているという。
 その事について久保氏も、冬の立山越えは不可能に近く、仮にザラ峠を通っていなければ、さらさら越えとは言えないのではないかとも主張しているようだ。

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  • 歴史

2012年01月11日 11:44

砺波市の住宅地図にも載っておりますが、頼成新の永田又郎宅地内に「能景怐vと、そこから150メートルほど離れた田んぼの中に「為景怐vと呼ばれる塚があり、この二つの塚は戦国時代のものと伝承されており、もとはそれぞれ「宇佐美塚」「長尾塚」と呼ばれていたようです。

『栴檀野誌』に、出羽国の旧米沢城主上杉氏が、頼成新にあるという祖先の墓を調査するために伊佐早謙(上杉氏の家宰)を派遣し、その際、伊佐早謙から当時の永田家の当主又平に送られたという書状が載っています。

伊佐早謙永田又平ニ贈リシ書状
両古塚之儀ニ付篤ト相調候ニ、貴邸内ノ塚ハ宇佐美定行ト申伝候ハ誤謬ト在候、其所以左ニ
一、永正三年九月十九日、長尾信濃守能景、椎名慶親ト芹谷ニ於テ戦ヒ討死、法名高岳正統、此後ニ宇佐美某・水原某等諸将モ戦死セシコト、古文書ニ徴シテ明白ナリ
一、天文十四年、長尾信濃守為景、亦同所ニ於テ戦死ス、法名譲怒道七、但シ、宇佐美定行ハ戦死セズ、定行ハ永禄七年七月五日死去、其墓ハ越後魚沼郡上田庄雲洞村雲洞庵ニアリ、以テ貴邸内ノ塚ハ能景塚ナラン 下略
   明治三十二年六月廿五日      伊佐早謙
      永田又平殿


これにより、永田邸内の塚は「宇佐美塚」ではなく「能景塚」と呼ばれるようになったと思われます。
また「為景塚」においても『栴檀野誌』には長尾為景戦死のところで

為景越後ヲ略シテ主トナリ進ンテ越中ヲ併合セントスルノ意切ナリ天文十四年… 略 …為景謀計ヲ知ラズ兵ヲ馳セテ追撃シ自ラヲ陥穿ニ墜ツ江崎但馬鎗ヲ以テ之ヲ殺ス茲ニ於テ増山軍ノ士気大ニ振ヒ勇戦激闘ニ敵ヲ敗ル越後ノ兵先ヲ爭フテ本國ニ走レリ此際増山ノ三十六ヶ寺院戦勝ヲ祝シテ同時ニ梵鐘ヲ鳴ラシ天地ヲ震動セシメタリトイフ後為景ノ霊魂ヲ慰メ復千光寺僧正ヲシテ懇ニ葬ラシメ法名眞光院高岳正等大居士ト謚シ(千光寺過去帳)其ノ墳墓ヲ長尾塚ト稱ス今頼成新ニ在リ古来相侵ス者ナシ

とあります。
最も古いもので、宝永元年(1704)には頼成新村内の塚が「為景塚」と藩へ報告されていたようですが、明治初年の地図には「長尾塚」となり、またいつの頃からか「為景塚」にもどったようです。
      『栴檀野誌』抜粋『増山城跡総合調査報告書』参考

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2011年05月30日 09:42

さて、いよいよ本題です。


長尾能景塚 (宇佐美塚)

能景塚は径10mほどの小さなマウンドをもった墳墓です。墳頂には五輪塔などの中世石造物の残骸が残されています。同じ頼成新のK宅には宇佐美塚から出土したという五輪塔が安置されています。かつて、鎌倉時代の珠洲焼の破片が見つかったこともあります。

能景の討死に関して、古文書の『本土寺過去帳』には「越中ニテ打死」、『反町十郎氏所蔵文書』には「般若野合戦討死」とあります。いずれも一級史料で信頼がおけるので、能景は頼成新あたりで敗死したのは、ほぼ間違いないでしょう。

千光寺には能景の位牌もありますし。



長尾為景塚 (長尾塚)

こちらにも小さな高まりをもったマウンドがあります。ただし、為景の没年には諸説ありますが、天文5年(1536)12月24日に春日山城下で没したというのが定説になりつつあります。ですから、般若野で亡くなったというのは無理があるので、長尾塚を為景塚とするのは史実ではありえません。ちなみに富山市婦中町牛滑にも為景塚が残されています。各地に為景塚が残っていることから、「為景と何らかの関係があった場所」と理解しておいたほうがよさそうです。

また、この塚は砺波市のふるさと文化財に指定されています。



為景塚、能景塚に関するお勉強は以上です。このブログ記事で予習をしたら、実際に現地を訪れてみることをおススメします。

これで塚に関する知識はバッチリですね!


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2011年05月30日 09:21



(↑白江秋広1992「頼成新の塚への一考察」『土蔵』第4号)

上の図をご覧ください。

図中の「長尾塚」が現在の為景塚、「宇佐美塚」が能景塚のこと。明治6年の段階では、このように呼ばれていたことがわかります。

それでは、いつから現在の呼称になったのでしょうか。

大正3年刊行の『栴檀野誌』によると、明治32年6月に米沢の上杉家から先祖の墓地調査のために、砺波市頼成新に使者が遣わされました。この時点以降、それぞれ為景塚・能景塚と呼ばれるようになったといわれます。

じつは、案外新しい呼び名なんですね。


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2011年05月30日 09:07

会員さんからお問い合わせがあったので、「長尾為景塚」と「長尾能景塚」のことについてご紹介したいと思います。

為景塚・能景塚について苦手意識をもっているアナタ!ぜひご一読のうえ、ガイド・スキルのアップにお役立てください!




まずは、日本人名大辞典から2人の武将についておさらいしておきましょう。


長尾能景

室町-戦国時代の武将。
長禄(ちょうろく)3年生まれ。越後(えちご)(新潟県)守護上杉房定(ふささだ),房能(ふさよし)父子の守護代をつとめた。永正(えいしょう)元年関東管領(かんれい)上杉顕定をたすけて武蔵(むさし)河越城(埼玉県)を攻める。越中(富山県)で一向一揆(いっき)とたたかい,永正3年9月19日戦死。48歳。


長尾為景

戦国時代の武将。
長尾能景(よしかげ)の子。上杉謙信の父。越後(えちご)(新潟県)守護代。永正(えいしょう)4年(1507)守護上杉房能(ふさよし)を敗死させ,その養子定実(さだざね)を守護とする。さらに房能の兄,関東管領上杉顕定(あきさだ)を攻めほろぼし,一国支配,戦国大名をめざす。晩年は国人衆との抗争をくりかえした。天文(てんぶん)11年ごろ死去したらしい。通称は六郎。



ポイントは、二人は親子であるということ。しかも為景が戦国の雄、上杉謙信(長尾景虎)の父であり、能景が祖父であるということ。ときどきゴッチャになるので、謙信→為景→能景の順番をシッカリ覚えておきましょう。


つづく


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