Tonami Blogへ
ID パスワード
このblogのトップへ戻る

増山城解説ボランティア曲輪の会

増山城解説ボランティア養成講座の修了生を中心としたお城好きのグループです。国指定史跡「増山城跡」のガイド活動をはじめ、増山城跡でのイベントや定期的に各地のお城を訪れる「城攻め」などを行って楽しんでいます。文化庁の「市民から文化力プロジェクト」に参加しています。
メール kuruwano@gmail.com
ホームページURL http://www.city.tonami.toyama.jp/blog/group/kuruwa/
設立日 2010(平成22)年10月
会員数 36名
主な活動 国指定史跡・続日本百名城 増山城の解説/増山城関連及び関係機関の事業への協力
前のページ
1  | 2  | 3  | 4

2012年01月11日 11:44

砺波市の住宅地図にも載っておりますが、頼成新の永田又郎宅地内に「能景怐vと、そこから150メートルほど離れた田んぼの中に「為景怐vと呼ばれる塚があり、この二つの塚は戦国時代のものと伝承されており、もとはそれぞれ「宇佐美塚」「長尾塚」と呼ばれていたようです。

『栴檀野誌』に、出羽国の旧米沢城主上杉氏が、頼成新にあるという祖先の墓を調査するために伊佐早謙(上杉氏の家宰)を派遣し、その際、伊佐早謙から当時の永田家の当主又平に送られたという書状が載っています。

伊佐早謙永田又平ニ贈リシ書状
両古塚之儀ニ付篤ト相調候ニ、貴邸内ノ塚ハ宇佐美定行ト申伝候ハ誤謬ト在候、其所以左ニ
一、永正三年九月十九日、長尾信濃守能景、椎名慶親ト芹谷ニ於テ戦ヒ討死、法名高岳正統、此後ニ宇佐美某・水原某等諸将モ戦死セシコト、古文書ニ徴シテ明白ナリ
一、天文十四年、長尾信濃守為景、亦同所ニ於テ戦死ス、法名譲怒道七、但シ、宇佐美定行ハ戦死セズ、定行ハ永禄七年七月五日死去、其墓ハ越後魚沼郡上田庄雲洞村雲洞庵ニアリ、以テ貴邸内ノ塚ハ能景塚ナラン 下略
   明治三十二年六月廿五日      伊佐早謙
      永田又平殿


これにより、永田邸内の塚は「宇佐美塚」ではなく「能景塚」と呼ばれるようになったと思われます。
また「為景塚」においても『栴檀野誌』には長尾為景戦死のところで

為景越後ヲ略シテ主トナリ進ンテ越中ヲ併合セントスルノ意切ナリ天文十四年… 略 …為景謀計ヲ知ラズ兵ヲ馳セテ追撃シ自ラヲ陥穿ニ墜ツ江崎但馬鎗ヲ以テ之ヲ殺ス茲ニ於テ増山軍ノ士気大ニ振ヒ勇戦激闘ニ敵ヲ敗ル越後ノ兵先ヲ爭フテ本國ニ走レリ此際増山ノ三十六ヶ寺院戦勝ヲ祝シテ同時ニ梵鐘ヲ鳴ラシ天地ヲ震動セシメタリトイフ後為景ノ霊魂ヲ慰メ復千光寺僧正ヲシテ懇ニ葬ラシメ法名眞光院高岳正等大居士ト謚シ(千光寺過去帳)其ノ墳墓ヲ長尾塚ト稱ス今頼成新ニ在リ古来相侵ス者ナシ

とあります。
最も古いもので、宝永元年(1704)には頼成新村内の塚が「為景塚」と藩へ報告されていたようですが、明治初年の地図には「長尾塚」となり、またいつの頃からか「為景塚」にもどったようです。
      『栴檀野誌』抜粋『増山城跡総合調査報告書』参考

曲輪の会 事務局



  • 歴史

2011年05月30日 09:42

さて、いよいよ本題です。


長尾能景塚 (宇佐美塚)

能景塚は径10mほどの小さなマウンドをもった墳墓です。墳頂には五輪塔などの中世石造物の残骸が残されています。同じ頼成新のK宅には宇佐美塚から出土したという五輪塔が安置されています。かつて、鎌倉時代の珠洲焼の破片が見つかったこともあります。

能景の討死に関して、古文書の『本土寺過去帳』には「越中ニテ打死」、『反町十郎氏所蔵文書』には「般若野合戦討死」とあります。いずれも一級史料で信頼がおけるので、能景は頼成新あたりで敗死したのは、ほぼ間違いないでしょう。

千光寺には能景の位牌もありますし。



長尾為景塚 (長尾塚)

こちらにも小さな高まりをもったマウンドがあります。ただし、為景の没年には諸説ありますが、天文5年(1536)12月24日に春日山城下で没したというのが定説になりつつあります。ですから、般若野で亡くなったというのは無理があるので、長尾塚を為景塚とするのは史実ではありえません。ちなみに富山市婦中町牛滑にも為景塚が残されています。各地に為景塚が残っていることから、「為景と何らかの関係があった場所」と理解しておいたほうがよさそうです。

また、この塚は砺波市のふるさと文化財に指定されています。



為景塚、能景塚に関するお勉強は以上です。このブログ記事で予習をしたら、実際に現地を訪れてみることをおススメします。

これで塚に関する知識はバッチリですね!


曲輪の会事務局


  • 歴史

2011年05月30日 09:21



(↑白江秋広1992「頼成新の塚への一考察」『土蔵』第4号)

上の図をご覧ください。

図中の「長尾塚」が現在の為景塚、「宇佐美塚」が能景塚のこと。明治6年の段階では、このように呼ばれていたことがわかります。

それでは、いつから現在の呼称になったのでしょうか。

大正3年刊行の『栴檀野誌』によると、明治32年6月に米沢の上杉家から先祖の墓地調査のために、砺波市頼成新に使者が遣わされました。この時点以降、それぞれ為景塚・能景塚と呼ばれるようになったといわれます。

じつは、案外新しい呼び名なんですね。


曲輪の会事務局


  • 歴史

2011年05月30日 09:07

会員さんからお問い合わせがあったので、「長尾為景塚」と「長尾能景塚」のことについてご紹介したいと思います。

為景塚・能景塚について苦手意識をもっているアナタ!ぜひご一読のうえ、ガイド・スキルのアップにお役立てください!




まずは、日本人名大辞典から2人の武将についておさらいしておきましょう。


長尾能景

室町-戦国時代の武将。
長禄(ちょうろく)3年生まれ。越後(えちご)(新潟県)守護上杉房定(ふささだ),房能(ふさよし)父子の守護代をつとめた。永正(えいしょう)元年関東管領(かんれい)上杉顕定をたすけて武蔵(むさし)河越城(埼玉県)を攻める。越中(富山県)で一向一揆(いっき)とたたかい,永正3年9月19日戦死。48歳。


長尾為景

戦国時代の武将。
長尾能景(よしかげ)の子。上杉謙信の父。越後(えちご)(新潟県)守護代。永正(えいしょう)4年(1507)守護上杉房能(ふさよし)を敗死させ,その養子定実(さだざね)を守護とする。さらに房能の兄,関東管領上杉顕定(あきさだ)を攻めほろぼし,一国支配,戦国大名をめざす。晩年は国人衆との抗争をくりかえした。天文(てんぶん)11年ごろ死去したらしい。通称は六郎。



ポイントは、二人は親子であるということ。しかも為景が戦国の雄、上杉謙信(長尾景虎)の父であり、能景が祖父であるということ。ときどきゴッチャになるので、謙信→為景→能景の順番をシッカリ覚えておきましょう。


つづく


曲輪の会事務局


  • 歴史