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増山城解説ボランティア 曲輪の会

増山城解説ボランティア養成講座の修了生を中心としたグループです。富山県砺波市の国指定史跡「増山城跡」のガイド活動や、関連事業へのお手伝いをさせていただいています。文化庁の「市民から文化力プロジェクト」に参加しています。2020年10月に10周年を迎えました。
メール kuruwano@gmail.com
ホームページURL http://www.city.tonami.toyama.jp/blog/group/kuruwa/
設立日 2010(平成22)年10月
会員数 36名
主な活動 国指定史跡・続日本百名城 増山城の解説/増山城関連及び関係機関の事業への協力
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2011年11月28日 10:46

「又兵衛清水」
 「天保11年杉野家絵図」に「字又兵衛清水」とある。それを写したと思われる。「砺波郡増山村古城跡の図」に「字又兵」とある。『越登賀三州志』『三州地理志稿』『越中遊覧志』等には、「古井」が多いことが記されているが、「又兵衛」という固有名詞は見られない。しかしながら、大正3年地元増山の土田古香によって書かれた『栴檀野誌』には、「増山城築城の際、神保氏の家臣山名又兵衛が発見した清水」だと記されている。

「馬洗池」
 二ノ丸の櫓台直下東側、山間の清水を利用した池で、歴代の城主が馬の水をくんだと伝える。「天保11年杉野家絵図」に「馬洗渕」とある。
 種々の地誌塁には「古井」が多かったことが記されているが、「馬洗池」に関する特別な記述は無い。『栴檀野誌』にも、本文中の記述は無く、巻頭図に「馬洗池」と記されているだけである。
「増山城跡総合調査報告書」p.321〜322より
曲輪の会 事務局


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2011年11月25日 15:16

「神水鉢」
 昭和43年に、地元増山の土田豊作によって記された『古城増山城史』には、増山城主神保氏がこの水鉢にうつる月影で時刻を知ったとされ、干天時でも水は決してかれることがないといわれていると書いてある。案内看板にある「神水鉢」はこの記述に拠っているようである。昭和44年にはNHKの大河ドラマ「天と地と」でこの地が全国的にクローズアップされた頃であり、この名称はこのころ創作されたものらしい。
 『古城増山城史』以前のものには、「旗台石」「手水鉢」などの名称はあるが、「神水鉢」なる名称は見られない。
 天保11年の「杉野家絵図」にも二ノ丸の北東あたりに「簱台石」と記してある。
 また、江戸時代の地誌類で最も早い時期に書かれたと思われる『越中旧事記』には、「旗台石」として、大きさが二尺ほどの、中がくぼんでいる石がある。中のくぼみは水一升はいるほどであり、しかもその水は、石の中から湧き出て四季を通して絶えることがないと記す。同名の書であるが「越中資料叢書」本には「手水鉢のごときなる石」で「水一升ばかり常にたたへり」とある。『越の下草』や『越登賀三州志』『越中志徴』などにも、地元の人は「旗台石」と言い伝えているとしている。「増山城跡総合調査報告書」p.321より

曲輪の会 事務局


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2011年11月22日 09:21

増山城にかかわる面白い伝承が『増山城跡総合調査報告書』に載っていますので紹介します。

落城に関する伝承

 @白米で馬を洗い、敵をあざむく話
 上杉謙信が増山城を攻めた時、上杉勢は城を取り囲み、水の供給を絶ったが、なかなか城は落ちなかった。それどころか、城中では水を滝のように流して馬を洗っているのが見えた。ところが、烏(からす)や鳶(とび)らが洗い場の周辺に群集しているのを見て、謙信の老兵は、馬を洗っているものは水ではなく、米であることを見破り、いよいよ水路を絶ち、ついに落城せしめたという。(『越中旧事記』『越登賀三州志』)

 A密路を教えた老尼の話
 上杉謙信が増山城を攻めた時、上杉勢は城を取り囲み、兵糧の供給を絶ったが、なかなか城は落ちなかった。その時、妙浄という老尼が、城の東の林の中に兵糧を運び込む密路があることを教え、そのために増山城は落城したと伝える。(『越中旧事記』『越登賀三州志』)
 現在、下山田・島新・東保新三集落の境界にまたがる通称「ばば谷」にこの老婆が住んでいたと伝えている。(『下山田村誌』)

曲輪の会 事務局




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2011年10月05日 09:56

 第3回戦国祭りのポスターのイメージキャラクターになっている“しょう姫ちゃん”について少し紹介しましょう。

 中川宗半(光重)の妻蕭(しょう)は、宗半生誕の翌年、永禄6年(1563)に生まれた。父は加賀百万石の祖前田利家、母はその正室まつ(芳春院)で第一子長女幸、第二子長男利長に次ぐ第三子である。
 中川家に伝わる伝承では、蕭姫は非常に美人で、豊臣秀吉が側室として望んだが果たされず、その際秀吉から蕭姫に贈られた玉が中川家に伝世していたという。
 旧砺波郡内には、蕭が発給した文書が三通残されている。一通は砺波市太田の加賀藩初期十村役金子家に、あと二通は高岡市の社家榊原家に残されているものである。いずれも当時光重不在中蕭姫が差し出したものとされている。
 宗半は文禄の役による名護屋滞陣またはそれに続く京都滞在中で、不在の多い宗半に代わり妻蕭姫が増山城を守っていたのかもしれない。
 蕭は前田家では、住んでいるところに因み増山殿と呼ばれていた。蕭姫が没したのは慶長8年(1603)で享年41歳であった。


曲輪の会 事務局


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2011年09月12日 10:34

9月10日土曜日午前中、
解説ボランティアとして増山城跡を案内しておりました。

一ノ丸まで来たところ、展望スポット手前で
「KINGMAXの2GBSDメモリーカード」を見つけました。
色はブルーでラベルは黒色です。

お心当たりの方は
曲輪の会事務局TEL 0763−32−6815までご連絡下さい。

曲輪の会 事務局


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2011年08月30日 09:41

 ついに春風亭昇太さんが、28(日)の“笑点”で言ってくれました !!

   「先日富山県砺波市の増山城に登って来ました。」
   「切岸がとても高かった。」

 7月に昇太さんと一緒に増山城跡に登った時、「是非テレビで言ってくださいね。」とお願いして、私たちもずっと待っていましたヨ。 ありがとう! 嬉しかったヨ!
 これを機会に、 「ン?砺波の増山城って?」
           「切岸って何だよ?」
          って多くの人に興味を持ってもらえたらいいなぁ。

曲輪の会事務局


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2011年08月26日 16:53

 久し振りに一般コースを、雨の合間に見てきました。
 大手門の杖、青竹の新品に、又草刈もしていただき綺麗になっています。
 安室屋敷に仮の梯子を設置、屋敷跡に入れます。
 神保夫人入水井戸、雨水で満タンです。こんなのはめったに見られません。
 さて、戦国祭りの一週間前までに、この春実施しました竹材使用イベント、第2回の今度は安室屋敷の梯子を竹材に、又、F郭に柵を設けます。この2回分のイベントを森林連合会へ報告し助成金を頂くことになっています。
 会員の皆様に竹材の伐採・運搬・柵作りのお手伝いをお願いします。詳しくは10/15の曲輪の会戦国祭り説明会でお話します。どうぞよろしく!





曲輪の会事務局 津田




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2011年08月05日 14:27

D角櫓(隅櫓)
 昭和六十二年〜平成三年の踏査の過程で、「二之丸」東北角及び西南角の二か所に明瞭な方形の櫓台遺構が残ること、さらに「安室屋敷」から空堀を隔てた北側のL郭東南角に方形を呈する、やや小高い所が一か所認められていたので、古絵図によってこれら三か所すべてが角櫓の櫓台であったことが裏付けられた。この他、「三之丸」の東南角にもう一か所「角櫓」の記入がある。この郭の東側には、一段低く張り出した平坦面の角にあったとみられるが、ここは上の平坦面も含め、後世の開墾などによって削平を受けているようで、このため、地表観察では全く気がつかなかったわけであり、絵図によって初めてその存在が知られたものである。
 ともかく、古絵図によって城内の四か所に角櫓が存在したことが判明した。この内、三の丸を除く三か所で遺構の存在が確認された。これらの櫓はいずれも城内の要所に設けられており、それぞれ防御の面で重要な役割を果たしたとみられる。たとえば、二の丸西南角の櫓は、主郭(本丸)にあたる同郭の出入り口を固めるとともに、西の一の丸や南の無常方面からの攻撃に備えている。また、おなじ二の丸東北角の櫓は、安室屋敷や三の丸に最も近い位置にあり、直下で二本の空堀がT次形に交差する、重要な所に面している。L郭の東南角の櫓についても、やはり直下で二本の空堀がT字形に交差する所に位置している。そこは南の安室屋敷との間を結ぶ土橋を見下す所でもある。もう一か所、三の丸東南角の櫓は同郭東側の空堀を見下すように張り出しており、空堀を乗り越えて来る敵を上と側面から射撃することが可能である。また、ここからは東側の深い谷間を隔て、向いの山並を望むこともでき、東方への備えとして重要な位置を占める。このような角櫓を要所に配置していること自体、まさに増山城の代表的な特色であり、山城としての完成期に近づいた姿を端的に示すものと言える。(増山城跡総合調査報告書より)

曲輪の会 事務局



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2011年07月15日 12:31

C鐘撞堂
  鐘撞堂にあたるのは、無常(H郭)のある尾根の南端部に残る櫓台状の遺構であり、前回の踏査までは、ほとんど注目されることがなかった。上部は7×6mの広さで、周囲は切り立てられ、東側に設けられた登り道によって、登り降りできる。『越の下草』には、「七間四方程の跡」とあるが、現況はさほど広いものではない。おそらく、基部の大きさを記したものであろう。
 この遺構が『越の下草』に記すように、時刻を報せる時鐘台であったかどうかは、今後もなお検討を要するが、本県の場合、婦中町安田城跡にも「カネツキドウ」の呼称が残っている。城跡に残る「カネツキドウ」の呼称から、当時、鐘を合図や情報伝達に用いていたとする考え方もあるが、実態はまだ不明であり、安易に判断することは避けたい。だだ、この無常南端の鐘撞堂の上からは城下町跡が見下せ、城下町に向けて何らかの合図を行うことはできたであろう。しかし、それ以上に注目すべき点は、この遺構が増山城南方の外側防御線とも言うべき空堀の西端に臨んでいることである。位置から見て、この遺構は南方の尾根伝いに無常のH郭へ侵入しようとする敵を阻止するために設けられた櫓台と考えるべきであろう。今、南方からこの無常の先端部にたどり着くためには、いったん空堀を超えねばならないが、遺構の直下、すなわち空堀の西端部は土橋状に掘り残され、南方との通路の役目を果たしている。この櫓台は、まさにその土橋を見下す位置にあり、侵入する敵に対しては、強力な防御拠点になったとみられる。(増山城跡総合調査報告書より)

曲輪の会 事務局


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2011年07月04日 15:32

B城内の郭群
 山上に設けられた郭としては、「一之丸」「二之丸」「三之丸」「無常」「安室屋敷」の地名が絵図中に見られる。これらの郭は江戸時代以降、一貫して場内の主要な郭とみなされ、それらの地名が付され、継承されてきたのだろう。ただし、「一之丸」「二之丸」「三之丸」の地名は、当初西方から順番に数える形で便宜上付けられた可能性が強く、本来の呼称とは考えられない。
 ところで、一つ気になる地名がある。それは、「一之丸」の西側に記されている「舛形」である。「舛(升・桝)形」とは、一般に城の出入り口に設けられた矩形または方形の区画を指す。ここでは、防御上の配慮から、城内への侵入路が屈折して設けられ、外部から直進して入れないようになっている。城門が二重に設けられているのも、大きな特徴である。また、城内からの出撃に際し、一時的に城兵を集結させる為のスペースとしても使われるという。
 「舛形」の地名は、あるいは一の丸の西側にそうした施設が存在したことを物語るのであろうか。今のところ、そのことを示す明確な遺構は残されておらず、存在自体も含め詳細は一切不明である。ただ、この一の丸西下は西から七曲がりをたどって登った道と、北からF郭を通って登った道がそれぞれ山上部に達して合流する所である。つまり、一の丸の西下は二本の登り道が集中する場所であり、ある意味では、城内と外部を結ぶ上で重要な所と言える。ここに土塁などを築き、城門を設けることによって出入口を固める施設を置いたとしても不思議ではない。参考までに、江戸後期の『越の下草』には、本丸の「南方に升形と唱る処ありて、二の丸なりといふ」と述べ、「二の丸」の別称を「升形」と記している。このことは、「升形」の呼称が江戸時代の早い時期に遡ることを示している。なお、城跡のある山が「升形山」と呼ばれている場合もある。たとえば、魚津市の升形山城、上市町の郷田砦、氷見市の荒山砦などである。この内、荒山砦については、山の形が四角で升を伏せたように見えるからだと伝えられている。おそらく、城が築かれた際、上部が削平された山容に由来するのだろう。とすれば、「増山」の地名も同様の理由から、「升山」が転じた可能性もある。 (増山城跡総合調査報告書より)
                   

  曲輪の会事務局




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2011年06月29日 16:00

A 水源
 山城にとって、水は大切な命の綱である。どんな堅城でも、水を絶たれば籠城戦を戦えず、いずれ陥落する。幸い増山は城域の内外に豊富な湧水や沢水を有し、水源には恵まれている。このことが増山城を山城の代表例とする理由の一つであるが、現在でも確認できる水源が三ヶ所、絵図中に記されている。

●「字又兵衛清水」は、特に水源として描かれていないが、現在、ここの山肌からしみ出た清水を「又兵衛清水」と呼んでおり、位置的にも主郭に当たる「二の丸」の直下にあることから、城中の重要な水源であったと言える。

●「馬洗渕」は、主郭である「二の丸」の東北角にそびえる櫓台の直下にあたる。今でも水がたたえられており、「馬洗池」と呼ばれている。絵図に「渕」と記されているところからみて、江戸時代にはもっと深く水をたたえていたとも考えられる。ここも城中の重要な水源であったろう。

●「神保夫人入水井戸」は、位置からみて、南方の城への水の供給というよりは、側に存在する屋敷などの水源としてほられたものであろう。城中の井戸については、「加能越三州地理志稿」に「毎郭有廃井」とあって、各郭に井戸跡の存在を記すが、今のところ、他には見出せない。 (増山城跡総合調査より)  

曲輪の会事務局


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2011年06月24日 12:03

今回から増山城跡について、少しでも参考になることがあればと思い『増山城跡総合調査報告書』より小分けにして、興味のあるところを抜粋していきたいと思っています。
 “天保十一年作成の古絵図から見た増山城”
 @ 登り道
 城跡に登る道は全部で五本描かれている。
  ●西の旧城下町付近から和田川を渡り、麓の「字龍波畠」から「一の丸」付近に登るルートは現在「七曲がり」と呼ばれている坂道であろう。
  ●北西の「字裏ナキ畠」から「一の丸」付近へ登るルートは、現在の和田川ダム付近からF郭を経て、一の丸にいたる道であろう。
  ●『字裏ナキ畠』から和田川の右岸沿いを少したどり、そこから『字御池谷』を登り、「三の丸」と「御所山」の間に出る道。
  ●「無常」の南端、「鐘撞堂」付近へ登る道があるが、現在の無常滝付近から尾根伝いに無常のH郭へ登るルートなのであろう。
  ●「三の丸」の東南角に描かれた「角櫓」付近へ麓から登る道が見られる。これはおそらく南麓から三の丸へと上るルートなのであろう。

以上五ヵ所の内、あとの三本については現在ほとんど使われておらず、地形の上からおおまかにたどれる程度である。  
(増山城跡総合調査報告書より) 
                             曲輪の会事務局


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2011年05月16日 23:22

5/13金曜日、増山城跡へ行ってきました。前日の雨のおかげでしょうか、
神保夫人入水井戸に満々と水を湛えていました。
何度も増山城跡には登っていますが、初めての出来事です。
曲輪の会 柄崎


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2011年05月13日 16:38


より大きな地図で 増山城跡の位置 を表示

増山城跡の所在地は、富山県砺波市増山地内です。

「増山城跡の場所がよくわからない」と言われるので、グーグルマップで増山城跡の位置を示してみました。国道359号を車で走ると城跡まで誘導看板があるので、わりと迷わずに行けると思います。

ひとりでも多くの方が増山城跡を訪れますように。



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