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増山城解説ボランティア 曲輪の会

増山城解説ボランティア養成講座の修了生を中心としたグループです。富山県砺波市の国指定史跡「増山城跡」のガイド活動や、関連事業へのお手伝いをさせていただいています。文化庁の「市民から文化力プロジェクト」に参加しています。2020年10月に10周年を迎えました。
メール kuruwano@gmail.com
ホームページURL http://www.city.tonami.toyama.jp/blog/group/kuruwa/
設立日 2010(平成22)年10月
会員数 35名
主な活動 国指定史跡・続日本百名城 増山城の解説/増山城関連及び関係機関の事業への協力
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2011年12月05日 11:45

「神保夫人入水井戸」
 二ノ丸、三ノ丸を経て、亀山城へ向かう途中の池の平にある井戸。謙信によって増山城が落城した折、神保夫人政子が神保家伝来の宝剣を抱いて入水したと『栴檀野誌』にある。他の江戸時代の地誌類には見当たらない。
 「天保11年杉野家絵図」には「池ノ平山」に「池」とある。この図には、「池」はこの一点だけが記してある。

「鐘撞堂」
 二ノ丸の北東隅に一段と高くなった櫓台がある。現地の案内看板には「鐘楼堂」とある。江戸時代の地誌類の中では「鐘」について記しているのは『越の下草』とそれを引用していると思われる『越登賀三州志』の「一書」だけである。

  三ノ丸と見ゆる処は、猶南方にて、時鐘台の跡とて、
 七間四方程の跡あり

 どの郭を三ノ丸としているのかわからないが、『越の下草』では「簱台に用へし石」のある所を「本丸」としているので、通称「二ノ丸」にある「鐘楼堂」をさしていないことは確かである。
 現在の郭の配置を見ると、最も南へ伸びるのは「無常」である。『越の下草』のいう南方の「三ノ丸」をこの「無常」とすると、その先に「鐘撞堂」なるものが存在したらしい。「天保11年杉野家絵図」には「無常」の先に「鐘搗堂」と書かれ、今日呼んでいる「二ノ丸」の「鐘楼堂」は「角櫓(すみやぐら)」と記している。 
         「増山城跡総合調査報告書」p.322より
曲輪の会 事務局



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2011年11月28日 10:46

「又兵衛清水」
 「天保11年杉野家絵図」に「字又兵衛清水」とある。それを写したと思われる。「砺波郡増山村古城跡の図」に「字又兵」とある。『越登賀三州志』『三州地理志稿』『越中遊覧志』等には、「古井」が多いことが記されているが、「又兵衛」という固有名詞は見られない。しかしながら、大正3年地元増山の土田古香によって書かれた『栴檀野誌』には、「増山城築城の際、神保氏の家臣山名又兵衛が発見した清水」だと記されている。

「馬洗池」
 二ノ丸の櫓台直下東側、山間の清水を利用した池で、歴代の城主が馬の水をくんだと伝える。「天保11年杉野家絵図」に「馬洗渕」とある。
 種々の地誌塁には「古井」が多かったことが記されているが、「馬洗池」に関する特別な記述は無い。『栴檀野誌』にも、本文中の記述は無く、巻頭図に「馬洗池」と記されているだけである。
「増山城跡総合調査報告書」p.321〜322より
曲輪の会 事務局


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2011年11月25日 15:16

「神水鉢」
 昭和43年に、地元増山の土田豊作によって記された『古城増山城史』には、増山城主神保氏がこの水鉢にうつる月影で時刻を知ったとされ、干天時でも水は決してかれることがないといわれていると書いてある。案内看板にある「神水鉢」はこの記述に拠っているようである。昭和44年にはNHKの大河ドラマ「天と地と」でこの地が全国的にクローズアップされた頃であり、この名称はこのころ創作されたものらしい。
 『古城増山城史』以前のものには、「旗台石」「手水鉢」などの名称はあるが、「神水鉢」なる名称は見られない。
 天保11年の「杉野家絵図」にも二ノ丸の北東あたりに「簱台石」と記してある。
 また、江戸時代の地誌類で最も早い時期に書かれたと思われる『越中旧事記』には、「旗台石」として、大きさが二尺ほどの、中がくぼんでいる石がある。中のくぼみは水一升はいるほどであり、しかもその水は、石の中から湧き出て四季を通して絶えることがないと記す。同名の書であるが「越中資料叢書」本には「手水鉢のごときなる石」で「水一升ばかり常にたたへり」とある。『越の下草』や『越登賀三州志』『越中志徴』などにも、地元の人は「旗台石」と言い伝えているとしている。「増山城跡総合調査報告書」p.321より

曲輪の会 事務局


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2011年11月22日 09:21

増山城にかかわる面白い伝承が『増山城跡総合調査報告書』に載っていますので紹介します。

落城に関する伝承

 @白米で馬を洗い、敵をあざむく話
 上杉謙信が増山城を攻めた時、上杉勢は城を取り囲み、水の供給を絶ったが、なかなか城は落ちなかった。それどころか、城中では水を滝のように流して馬を洗っているのが見えた。ところが、烏(からす)や鳶(とび)らが洗い場の周辺に群集しているのを見て、謙信の老兵は、馬を洗っているものは水ではなく、米であることを見破り、いよいよ水路を絶ち、ついに落城せしめたという。(『越中旧事記』『越登賀三州志』)

 A密路を教えた老尼の話
 上杉謙信が増山城を攻めた時、上杉勢は城を取り囲み、兵糧の供給を絶ったが、なかなか城は落ちなかった。その時、妙浄という老尼が、城の東の林の中に兵糧を運び込む密路があることを教え、そのために増山城は落城したと伝える。(『越中旧事記』『越登賀三州志』)
 現在、下山田・島新・東保新三集落の境界にまたがる通称「ばば谷」にこの老婆が住んでいたと伝えている。(『下山田村誌』)

曲輪の会 事務局




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2011年10月05日 09:56

 第3回戦国祭りのポスターのイメージキャラクターになっている“しょう姫ちゃん”について少し紹介しましょう。

 中川宗半(光重)の妻蕭(しょう)は、宗半生誕の翌年、永禄6年(1563)に生まれた。父は加賀百万石の祖前田利家、母はその正室まつ(芳春院)で第一子長女幸、第二子長男利長に次ぐ第三子である。
 中川家に伝わる伝承では、蕭姫は非常に美人で、豊臣秀吉が側室として望んだが果たされず、その際秀吉から蕭姫に贈られた玉が中川家に伝世していたという。
 旧砺波郡内には、蕭が発給した文書が三通残されている。一通は砺波市太田の加賀藩初期十村役金子家に、あと二通は高岡市の社家榊原家に残されているものである。いずれも当時光重不在中蕭姫が差し出したものとされている。
 宗半は文禄の役による名護屋滞陣またはそれに続く京都滞在中で、不在の多い宗半に代わり妻蕭姫が増山城を守っていたのかもしれない。
 蕭は前田家では、住んでいるところに因み増山殿と呼ばれていた。蕭姫が没したのは慶長8年(1603)で享年41歳であった。


曲輪の会 事務局


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2011年09月12日 10:34

9月10日土曜日午前中、
解説ボランティアとして増山城跡を案内しておりました。

一ノ丸まで来たところ、展望スポット手前で
「KINGMAXの2GBSDメモリーカード」を見つけました。
色はブルーでラベルは黒色です。

お心当たりの方は
曲輪の会事務局TEL 0763−32−6815までご連絡下さい。

曲輪の会 事務局


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2011年08月30日 09:41

 ついに春風亭昇太さんが、28(日)の“笑点”で言ってくれました !!

   「先日富山県砺波市の増山城に登って来ました。」
   「切岸がとても高かった。」

 7月に昇太さんと一緒に増山城跡に登った時、「是非テレビで言ってくださいね。」とお願いして、私たちもずっと待っていましたヨ。 ありがとう! 嬉しかったヨ!
 これを機会に、 「ン?砺波の増山城って?」
           「切岸って何だよ?」
          って多くの人に興味を持ってもらえたらいいなぁ。

曲輪の会事務局


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2011年08月26日 16:53

 久し振りに一般コースを、雨の合間に見てきました。
 大手門の杖、青竹の新品に、又草刈もしていただき綺麗になっています。
 安室屋敷に仮の梯子を設置、屋敷跡に入れます。
 神保夫人入水井戸、雨水で満タンです。こんなのはめったに見られません。
 さて、戦国祭りの一週間前までに、この春実施しました竹材使用イベント、第2回の今度は安室屋敷の梯子を竹材に、又、F郭に柵を設けます。この2回分のイベントを森林連合会へ報告し助成金を頂くことになっています。
 会員の皆様に竹材の伐採・運搬・柵作りのお手伝いをお願いします。詳しくは10/15の曲輪の会戦国祭り説明会でお話します。どうぞよろしく!





曲輪の会事務局 津田




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2011年08月05日 14:27

D角櫓(隅櫓)
 昭和六十二年〜平成三年の踏査の過程で、「二之丸」東北角及び西南角の二か所に明瞭な方形の櫓台遺構が残ること、さらに「安室屋敷」から空堀を隔てた北側のL郭東南角に方形を呈する、やや小高い所が一か所認められていたので、古絵図によってこれら三か所すべてが角櫓の櫓台であったことが裏付けられた。この他、「三之丸」の東南角にもう一か所「角櫓」の記入がある。この郭の東側には、一段低く張り出した平坦面の角にあったとみられるが、ここは上の平坦面も含め、後世の開墾などによって削平を受けているようで、このため、地表観察では全く気がつかなかったわけであり、絵図によって初めてその存在が知られたものである。
 ともかく、古絵図によって城内の四か所に角櫓が存在したことが判明した。この内、三の丸を除く三か所で遺構の存在が確認された。これらの櫓はいずれも城内の要所に設けられており、それぞれ防御の面で重要な役割を果たしたとみられる。たとえば、二の丸西南角の櫓は、主郭(本丸)にあたる同郭の出入り口を固めるとともに、西の一の丸や南の無常方面からの攻撃に備えている。また、おなじ二の丸東北角の櫓は、安室屋敷や三の丸に最も近い位置にあり、直下で二本の空堀がT次形に交差する、重要な所に面している。L郭の東南角の櫓についても、やはり直下で二本の空堀がT字形に交差する所に位置している。そこは南の安室屋敷との間を結ぶ土橋を見下す所でもある。もう一か所、三の丸東南角の櫓は同郭東側の空堀を見下すように張り出しており、空堀を乗り越えて来る敵を上と側面から射撃することが可能である。また、ここからは東側の深い谷間を隔て、向いの山並を望むこともでき、東方への備えとして重要な位置を占める。このような角櫓を要所に配置していること自体、まさに増山城の代表的な特色であり、山城としての完成期に近づいた姿を端的に示すものと言える。(増山城跡総合調査報告書より)

曲輪の会 事務局



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2011年07月15日 12:31

C鐘撞堂
  鐘撞堂にあたるのは、無常(H郭)のある尾根の南端部に残る櫓台状の遺構であり、前回の踏査までは、ほとんど注目されることがなかった。上部は7×6mの広さで、周囲は切り立てられ、東側に設けられた登り道によって、登り降りできる。『越の下草』には、「七間四方程の跡」とあるが、現況はさほど広いものではない。おそらく、基部の大きさを記したものであろう。
 この遺構が『越の下草』に記すように、時刻を報せる時鐘台であったかどうかは、今後もなお検討を要するが、本県の場合、婦中町安田城跡にも「カネツキドウ」の呼称が残っている。城跡に残る「カネツキドウ」の呼称から、当時、鐘を合図や情報伝達に用いていたとする考え方もあるが、実態はまだ不明であり、安易に判断することは避けたい。だだ、この無常南端の鐘撞堂の上からは城下町跡が見下せ、城下町に向けて何らかの合図を行うことはできたであろう。しかし、それ以上に注目すべき点は、この遺構が増山城南方の外側防御線とも言うべき空堀の西端に臨んでいることである。位置から見て、この遺構は南方の尾根伝いに無常のH郭へ侵入しようとする敵を阻止するために設けられた櫓台と考えるべきであろう。今、南方からこの無常の先端部にたどり着くためには、いったん空堀を超えねばならないが、遺構の直下、すなわち空堀の西端部は土橋状に掘り残され、南方との通路の役目を果たしている。この櫓台は、まさにその土橋を見下す位置にあり、侵入する敵に対しては、強力な防御拠点になったとみられる。(増山城跡総合調査報告書より)

曲輪の会 事務局


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