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増山城解説ボランティア曲輪の会

増山城解説ボランティア養成講座の修了生を中心としたお城好きのグループです。国指定史跡「増山城跡」のガイド活動や、関連事業へのお手伝いをさせていただいています。文化庁の「市民から文化力プロジェクト」に参加しています。2020年10月に10周年を迎えました。
メール kuruwano@gmail.com
ホームページURL http://www.city.tonami.toyama.jp/blog/group/kuruwa/
設立日 2010(平成22)年10月
会員数 36名
主な活動 国指定史跡・続日本百名城 増山城の解説/増山城関連及び関係機関の事業への協力
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2012年11月21日 10:53

11月17日、朝からしっかり雨模様、福井へ向かう途中、風も伴い、どんどん荒れてくる。今回は城攻めは断念し、資料館と城下町を中心に見学する事となる。午後からは北の庄城址跡、福井市立郷土歴史博物館へ向かいました。


城下町、上城戸、7〜8Mくらいはありそう。規模がやっぱり凄い!

諏訪館跡庭園、右側にある4Mの巨石には3代貞景、4代孝景の法名が刻まれています。洗練された石組は京都との交流が偲ばれます。

湯殿跡庭園から朝倉館跡を眺める。
敷地6,500u程度、三方は土塁と濠で囲まれています。

中ノ御殿の山側にある空濠、下に見えるのは館跡の土塁です。
ところで、一乗谷は白い犬のお父さんのふるさとなんだって、皆さん知ってた?
       曲輪の会事務局 柄崎


  • 城攻め

2012年11月17日 23:05

本日(11/17)、一乗谷朝倉氏遺跡を訪ねてきた。
11月2度目の曲輪の会の城攻め。行って良かったと思える満足な1日でした。
秋も深く、色ずいた山あいにある広大な遺跡は情緒深く、誰が訪れても魅了されるようなところだった。
まずは遺跡資料館に立ち寄り、埋蔵文化財調査センターの方より発掘調査結果の説明を受けた後、館内の展示物を案内いただいた。
当時の力のある武将は中国や朝鮮半島の陶磁器や掛け軸などを収集し、財力を誇示したようである。館内は青磁、白磁、山水画など多数の出土品が展示してあった。その出土品は160万点に及ぶらしい。
資料館を後にして、城下町跡を散策。
谷間の城下町を防御する城戸を目の当たりにし、そのスケールに驚いた。これは凄い。
復原された屋敷跡も見ごたえ充分。武家、職人などの町屋が建ち並び、当時の繁栄ぶりが伝わってくる。
石組が荒々しく印象的な諏訪館庭園、朝倉館の庭園、また主殿、会所跡などの居館は管領細川氏の館を模したもののようであるが、京文化、権威を意識していた事が窺える。
遺跡を歩いていると、威風堂々、栄華といった印象を強く感じる場所だった。
今日、一乗山城を攻める予定であったが、激しい降雨により断念。次回の楽しみにとっておく事となった。
埋蔵文化財調査センターの方にはお世話になり、有難うございました。

曲輪の会 長江


  • 城攻め

2012年11月04日 20:57

11月4日、お天気に恵まれ、絶好の城攻め日となりました。多くの会員様に参加頂きました。
ありがとうございました。

池田城、こんこんと水が湧いています。城兵にとって重要な水源であったでしょう。



        佐伯軍師を囲んで、

        曲輪の会 事務局


  • 城攻め

2012年11月04日 16:54

本日、気持ちの良い秋晴れの中、池田城(立山町池田)・論田山城(富山市大山)を散策してきた。
今回は曲輪の会の年間行事として行われ、会員多数が参加し、我が会の軍師、佐伯哲也さんのガイドという贅沢な城攻めでした。
いづれも立山山麓の山城で、池田城は神保長職の支城の一つ。重臣の寺嶋職定が居城していたと言われる山城で、上杉謙信に攻略された歴史がある。
山深い中にひっそりと今なお、当時の歴史を残している遺構を歩いていると、ここではどんな歴史があったのだろうと興味が湧いてくる。
佐伯軍師作成の縄張り図を見ながら、城中を散策。
主郭付近の竪堀のスケールが大きく印象的だった。
軍師からは各郭を繋ぐ通路が無く、独立しており、城兵の退路が無いことから、戦国期の国人層に見られる縄張りと説明があった。
午後は昼食後、論田山城の散策。
論田山城は付近にある亀谷銀山を確保するため、織田軍に対抗し、飛騨の江馬氏が築城したようだ。
佐伯軍師によると論田山城は池田城と違って、長大な切岸に見られように、縄張り全体で防御の仕掛けがされており、在地土豪の城館には見られない縄張りとの事。また郭には低い土塁があり、高い土塁に比べ柵列の耐久性が良く、これは江馬氏特有の遺構であると説明があった。

今から4〜5百年前の生きた人々の歴史が身近な所で体感できる山城歩きは実に楽しく、一緒に散策した会員の方から聞く新たな話も新鮮でした。今後、会の行事として城攻めを恒例にして行きたいと思います。
佐伯さんには私達のために時間を割いていただき、感謝いたします。
今後も軍師として是非、ご協力いただきたいと願います。

曲輪の会 長江


  • 城攻め

2012年07月16日 11:41

安川城を簡単にご案内いたします。

別 名 鬼ヶ城、浅野谷城(あさんたんじょう)
所在地 砺波市安川父倉
規 模 250m×200m
和田川左岸の浅野谷・塩谷集落
砺波市では亀山城に次ぐ規模を持つ。
縄張りについて
標高190,2mの主郭より派生する4つの尾根を利用して、郭を設けています。主郭より北東方向に三の丸、北西方向に二の丸を配置、三の丸の下には竪堀を設けています。特徴は尾根を通路として利用しているところだそうです。竪堀により敵を通路に誘い込む構造は亀山城と似ていると感じました。佐伯先生は「安川城の通路の発達を亀山城で見ることができる」との事。通路の発達=城の発達と考えることができました。
なお、亀山城の通路の発達を11月予定の池田城で見ることができるとの事。ますます、池田城攻めが楽しみですね。
なお、安川城散策希望の方は是非、曲輪の会に連絡をくださいね。城跡は個人所有の土地ですので、よろしくお願いしまーす。
     曲輪の会 事務局 柄崎


  • 城攻め

2012年07月13日 12:03

7月8日、栴檀山公民館・栴檀山高齢化学級主催による安川城説明会が行われました。
栴檀山住民の皆様、曲輪の会会員、60名、参加のもと、佐伯哲也先生を先頭にいざ出陣!




主郭にて記念写真

主郭の付属郭、馬小屋があったと思われる一段下がった郭

栴檀山のお母さんたちが作ってくれた、そうめんを頂きました。
栴檀山公民館で皆さんくつろいでます。

        曲輪の会事務局


  • 城攻め

2012年05月28日 14:17

5月26日 佐伯哲也先生による亀山城と富崎城の解説会が行われ、県外の城愛好家や大学生も加わり会員15名一般4名が参加しました。



〜ついにベールを脱いだ亀山城〜
今年の2月に亀山城周辺の整備が行われ、樹木や雑草に覆われていた亀山城の山肌がよく見えるようになりました。
これまで、亀山城跡は、増山城跡解説ルートの最終コーナーにあり、時間的余裕がある場合に遊歩道を約15分で登り降りしながら紹介する程度の所だと思っていました。今回の佐伯先生をお招きした解説会では、亀山城の、“攻め手”が通ると考えられるいくつかの攻撃ルートを実際に体験し、土塁、竪堀など防御の仕掛けがなぜその場所に必要だったのかを教えていただきました。
増山城がいくつもの大きな曲輪から構成されているのに比べると、亀山城は小じんまりとしていますが、さまざまな防御の仕掛けが随所に施され、“攻め手”を寄せ付けない堅固な城だったのだと認識を新たにしました。
見どころの多い城であることが分かった曲輪の会員から「亀山城重点解説コースを作ってもよいのでは・・・。」との声も聞かれました。

〜神保氏ゆかりの富崎城攻め〜
午後からは、旧婦中町にある富崎城を説明していただきました。
この富崎城は、かつて神保氏や上杉氏が支配し、また両者とも城を捨てて逃げたなど、増山城と共通するものがありますが、外見は全く異なり、山の上にあるのに平坦で、まるで“平城”のような印象です。
草をかき分け、虎口や橋台、内堀などを確認しました。入り口から奥まった主郭には、「神保城跡の標」と刻まれた石碑が立っていましたが、佐伯先生の説では、この城の現存する縄張りは、「馬出」の特徴、通路が織豊系城郭ほど発達していない点などから天正年間前期の上杉氏による影響を最も受けていると考えられるとのことです。
汗ばむ陽気でしたが、今後の解説に大いに活かせる内容のある充実した解説会と城攻めでした。
佐伯先生の説得力のある語り口は城好きの我々にとって、ますます城を攻めてみたいとの想いに掻き立てられるものがあり、今後の城攻めにも是非“軍師”として導いていただきたく思います。ありがとうございました。
              曲輪の会 川幡


  • 城攻め

2011年05月18日 07:29

つづき。
ちょっと長いけど、頑張って読みましょう!


室町期に入ると、新川郡守護代となった椎名氏は北陸街道沿いの魚津城と松倉城を拠点とし、越中東部に勢力を扶植した。椎名氏は初め越後上杉氏に属していたが、永禄11年(1568)春、椎名康胤は武田信玄と結んで上杉氏に敵対したため、翌年8月上杉輝虎(謙信)は軍勢を率いて松倉城を攻め、城主康胤は城を追われた(8月23日「上杉輝虎書状」大河原辰次郎所蔵文書)。こののち松倉城は魚津城と並んで上杉氏の有力支城となり、河田長親らの部将が在番して城を守った。天正5年(1577)上杉謙信が織田信長と戦った際に作成された上杉家中役方大概(安田和泉所蔵文書)に「越中松倉初ハ金山河田豊前守」とある。同六年に謙信が急死すると、織田方が越中へ進出。上杉方をしだいに越中東部へ圧迫し、松倉城も上杉方と織田方の攻防の場となっている。同8年8月22日には織田方の神保長住が「金山城下」へ攻め込み、付近に放火する動きをみせているが(9月22日「神保長住書状」遺編類纂北国鎮定書札類)、この場合の金山城下は松倉城下をさすと考えられる。

翌9年3月長年にわたって松倉城主を勤めた河田長親が病死したため、上杉景勝は4月8日に松倉城警備の強化を命じ(「上杉景勝書状」歴代古案)、5月28日には警備の掟を定めている(上杉年譜)。
天正10年松倉城は魚津城とともに織田方の本格的な攻撃を受けた。とくに魚津城には柴田勝家・前田利家・佐々成政らが猛攻を加え、上杉景勝も出馬して天神山(てんじんやま)城に着陣、魚津城の救援を試みたが果せず(「上杉年譜」など)、同年5月26日夜に同城からの撤兵を行い、同日松倉城からも城兵が引揚げている(同月27日「前田利家書状」尊経閣文庫)。

こうして6月3日に魚津城は落城したが、この直後に本能寺の変の知らせが届き、織田勢の撤退とともに上杉方が再び魚津城や小出(こいで)城(現富山市)などを奪回した。しかし、翌年態勢を立直した佐々成政に攻められ、城将らは越後へ退去した。この間、松倉城が上杉方の手にあったか否かは不明だが、おそらく魚津・小出両城の維持が精いっぱいであったと考えられる。なお「三州志」によれば、前田利家は慶長(1596―1615)の初め松倉城を廃して升形山(ますがたやま)城を使ったと伝えており、もはや高所の山城を使う時代は終わったのであろう。

文政元年(1818)の城跡館跡由来書上帳(加越能文庫)によると、本丸の規模は東西二五間ほど、南北六〇間ほど、二の丸は四〇間四方ほど、大手先の三の丸は東西一〇間ほど、南北三〇間ほどで、北方は山続き、東・西・南の三方は深い谷と記される。越中三大山城の名のとおり、山頂部の主郭を中心に北東方向の尾根続きに郭群が連なり、各郭の間は堀切によって断たれている。また、麓の鹿熊集落に続く北西方向の尾根筋にも多数の郭群が配されている。

松倉城の最大の特徴は、升形山城・水尾山(みずおやま)城など周囲に多数の支城を設けていることで、それらが一体となって当地域全体を守っている。山上からはそれらの支城網をはじめ、早月(はやつき)川以西の平野部や魚津、さらには日本海も見渡せる。麓の鹿熊などには城下集落が存在していたとみられ、侍屋敷や寺院などにちなむ地名も多く分布する。椎名氏時代から上杉氏時代にかけて城郭群が築かれ、城下集落が繁栄した背景は、松倉金山をはじめとする山中に存在した多数の金山によるところが大きいとみられ、別名金山城とよばれるのもこのためであろう。

【引用元】 『日本歴史地名大系』(平凡社)


  • 城攻め

2011年05月17日 07:27

5月29日に城攻めを行なう松倉城の情報です。

「城攻め」とは、曲輪の会の仲間で県内外のお城を探訪することをいいます。ただの「探訪」ではつまらないと思い、山城を踏査するときの心構え「登るときは攻め手の気持ちで」にならい、「城攻め」と呼ぶことにしました。



角川東岸の字城山(しろやま)(標高430メートル、比高360メートル)に築かれた山城。県指定史跡で、鹿熊(かくま)城・金山(かなやま)城ともいう。

守山(もりやま)城(現高岡市)・増山(ますやま)城(現砺波市)と並び、越中三大山城の一つとされる。

魚津城とともに室町―戦国期の新川(にいかわ)郡守護代椎名氏の居城として知られるが、椎名氏は鎌倉前期の承久の乱後に新補地頭として当地に入部したとみられる。松倉城が史料上に現れるのが南北朝期であることから、遅くとも鎌倉末期には築造されたものであろう。「太平記」巻二〇によると、建武5年(1338)7月3日に越後国府を発した南朝方の越後勢を防ぐため、越中守護普門(井上)俊清が国境に布陣したが、大半が討たれて「松倉城」へ引籠っている。このことから、松倉城がすでに南北朝初期より守護の拠る城郭として使われており、当地の椎名氏はこれより普門(井上)氏や桃井氏に属し、その軍事行動に協力したとみられる。

康永3年(1344)井上俊清が守護を罷免され幕府に敵対すると、能登吉見勢や桃井勢が討伐に差向けられ、貞和2年(1346)7月には井上方の「松倉与水尾南山要害」などで戦いが行われた(同年閏9月日「得田素章代章名軍忠状」遺編類纂所収得田文書)。この結果、俊清は降伏、松倉城も陥落したとみられる。しかし俊清は翌三年再び幕府に敵対したため、桃井直常や能登の吉見氏頼の軍勢が討伐に差向けられた。

同4年10月日の得田素章軍忠状(同文書)によると、松倉城に拠る井上方は同月一二日夜に城を落延び、内山(うちやま)城(現黒部市か)へと逃れている。その後、応安2年(1369)には元越中守護桃井直常が幕府に敵対し、10月22日吉見勢が桃井方の松倉城を攻めている(同年12月日「得田章房軍忠状」尊経閣文庫蔵得田文書)。翌3年3月16日、長沢(ながさわ)(現婦中町)において守護斯波義将の軍勢は桃井方と戦って桃井直和らを討取り、18日には松倉城に籠る桃井残党が降参・没落している(花営三代記)。

【引用元】 『日本歴史地名大系』(平凡社)


  • 城攻め