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増山城解説ボランティア曲輪の会

増山城解説ボランティア養成講座の修了生を中心としたお城好きのグループです。国指定史跡「増山城跡」のガイド活動や、関連事業へのお手伝いをさせていただいています。文化庁の「市民から文化力プロジェクト」に参加しています。2020年10月に10周年を迎えました。
メール kuruwano@gmail.com
ホームページURL http://www.city.tonami.toyama.jp/blog/group/kuruwa/
設立日 2010(平成22)年10月
会員数 36名
主な活動 国指定史跡・続日本百名城 増山城の解説/増山城関連及び関係機関の事業への協力
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2014年08月25日 13:06

今年の3月、長野県飯綱町の「いいづな歴史ふれあい館」と佐久間安政(金沢城の初代城主、佐久間盛政の弟、盛次)のご子孫にあたる方から「佐々成政」の婿養子だった「佐久間源六勝之」のことについて教えてくださいとのメールが曲輪の会にありました。
詳しいことについては「増山城跡総合調査報告書」の筆者、高岡徹氏に砺波市教育委員会から繋いでいただきました。いただいたメールによって繋がったご縁です。

「史跡増山城跡保存管理計画」砺波市教育委員会によれば、
天正6年に謙信が急死すると、越中の国人衆が織田方に走る動きを見せた。天正9年に孤立した増山城の上杉勢は城に火を放って木舟城に移っている。しかし、木舟城は北陸に軍事展開する織田方の手に落ち、増山城も攻略された。織田方は増山城を拠点にして一揆方の拠点である瑞泉寺を攻めたとみられる。織田の武将佐々成政は天正11年頃に越中を平定し、増山城は富山城を本拠とした成政の有力支城となった。この頃、城を守っていたのは、成政の養子、佐々勝之や直属の馬廻衆であったという。とされている。
では、佐々源六勝之とはどんな人物なのだろか?
ちなみに佐々源六勝之=佐久間勝之は同一人物ですよ!氏族は佐久間→柴田→佐々→佐久間と変わっています。
永禄11年、織田氏の家臣・佐久間盛次の第四男として生まれる。はじめは叔父の柴田勝家の養子となったが、後に佐々成政の娘を娶り、婿養子となった。後に北条氏、豊臣家、蒲生氏郷、徳川家へと主君を変えている。佐久間姓に復したのは、秀吉に仕えてから。
佐久間兄弟は蒲生氏郷に付属し、奥州討伐で戦績をあげ、当時、蔵入地にしたばかりの北信濃(兄、安政に槙島(現在の長野市信州新町)、弟の勝之に長沼城を与えました。秀吉死後は徳川家に仕えました。関ヶ原、大阪夏の陣、冬の陣でも戦績をあげ、再び、北信濃の地を拝領することになりました。
繋がりの中で、新たに解ったこと!
佐久間勝之にとって増山城は人生で最初の守城だったこと。佐久間勝之という共通点で250年余りの年月を超えてご縁をいただきました。
今年度中に、長沼住民の皆様が増山城を訪れていただくことになるかもしれません。曲輪の会皆で温かいもてなしをしたいものです。

飯綱広報紙「いいづな通信」6月号から「マンガ戦国佐久間兄弟」の連載が始まりました。
月1回発行です。増山城は9月号に登場の予定だそうです。HPで発行されたら、皆さんにもお知らせしたいと思います。
  
             曲輪の会 柄崎 文枝


  • 歴史

2014年03月29日 13:09

先日、増山城の最後の伝承者といわれる、Tさん宅へお邪魔させていただいた。なかなか日程が合わず、やっと、やっとの念願の訪問となりました!増山城の魅力を感じるには、曲輪を巡るだけでなく、外街道を、内街道を含め、自分だったらどうこの城を攻めるかという観点で想像力を膨らませることが新しい発見になると思う。冬の間に地元の方に案内してもらい、自分の足で孫次山砦麓から雀坂を抜け、自分の足で街道を歩いてみた、それによって外街道から内街道へ続く道が複数あることが判った。Tさんのお話では、明治以降新しい道がついたことにより、失われた道もけっこうあるとのこと。「上杉謙信による侵攻はどこから行われたのか?」答えは「判らない!」とのこと、富山、婦中方面から、陣取り場を経ての侵攻、その他に放生津から和田川を使っての侵攻も考えられるのではないかということ。陸路だけでなく、海上、河川を使っての侵攻の可能性を考えてもよいのではないかと思った。実際、下山田、東保方面にも密路伝承もある。伝承については「拡大解釈が多いが事実と照らし合わせながら検証していくことが大切」と佐伯先生がいっておれた、想像力を働かせ、様々な可能性を検証していくことが真実に近づくことであると思う。Tさんは、「七曲がり側の橋はダムができる前、10M以上も川が下がっていた」といわれる。七曲がり側の切岸を想像すると、敵兵にとってはものすごい威圧感があったと思う。そのような事実も是非、ガイドに組み込んでほしいとのことであった。語るだけのガイドではなく、感じてもらえるガイドを改めて目指す必要があると感じた。伝承を引き継ぐということは、「自分の故郷に価値を見つけること」「無欲でなければいけないこと」様々のことを教えて頂いた訪問となりました。

         曲輪の会事務局 柄崎 文枝


  • 歴史

2012年02月15日 10:45

日本の家紋は、縄文・弥生土器の文様にその原型を見ることができるようですが、正式には平安時代中期に貴族たちが牛車や装飾品に、目印用として自分のマークを入れたことが発祥とされています。
後に武将たちが、戦場で敵味方を区別するための印として貴族を真似た旗印をつくり、この習慣が戦国時代に全国へと広がっていきました
このように、旗・幕・盾・武具に用いていたものが衣服にも使われるようになります。武家が家紋を礼服につけるようになったのは鎌倉時代からで、当時まだ一般化されてなかったものが南北朝時代になって直垂(ひたたれ:武家社会で用いられた男性用衣服)につけるようになり、これが礼服の始まりになったといわれています。
家紋は、徳川時代には権威の象徴として、元禄時代には町民にも許されるようになり、明治以降になると苗字とともに開放され、代々受け継がれることで家の紋章としての【家紋】が定着していったようです。

曲輪の会 事務局


  • 歴史

2012年02月01日 12:05

 天正十二年(1584)十一月末、富山城主の佐々成政が家臣従者100人ばかりを引き連れ厳冬期の北アルプスを越えるという、前人未到の「さらさら越え」を決行したことにについて、日付や人数等については少しずつのずれがあるが、いずれも大同小異で、天正十二年冬期であることは江戸期に著された数多くの書物によって広く知られている。
 成政はなぜこのような無謀をあえて行ったのか?
信長の忠臣であった成政は、織田家を乗っ取るような秀吉をかねてより快く思っておらず許せなかった。そこで成政は同じく秀吉と敵対していた家康と結び対抗するが、主君と仰いでいた信雄が、突如秀吉と和睦してしまい、これを知った家康も秀吉と敵対する理由が無くなり、和睦を結んでしまう。
 だが成政は「織田家再興」を諦め切れず、家康にもう一度説得しようと思った。ところが家康の居城・浜松へ出る為のルートは、越後は上杉景勝、加賀は前田利家という秀吉方が支配しており、また南の美濃は秀吉の領地ということで、家康に会うには厳冬の雪深い立山連峰を越えて行くルートしか考えられなかった。
 結果として、決死の覚悟で敢行した立山越えだったが、家康の考えを変えることは出来ず全くの徒労に終わってしまう。
 しかしこのことは、一戦国武将の戦国史としてより、日本登山史上初の真冬の北アルプス越えとしての方に大きな意味を持つという。
 だからこそ今でも、往時の装具や大量の食糧等を考えると、厳寒期の「さらさら越え」に疑問視する人が出てくるのかもしれない。
参考:遠藤 和子著 「佐々成政〈悲運の知将〉の実像」

曲輪の会 事務局



  • 歴史

2012年01月18日 11:54

 佐々成政が、厳冬期に立山連峰を越えて浜松に向かったと伝わる「さらさら(ザラ峠)越え」について異論を唱える人がいるという。
 その人は大山歴史民俗研究会の久保尚文会長で、松本市に残る地元豪族の文書「榛葉文書」に、徳川家が、佐々家による夏の行脚への便宜を図ったことに対する礼状を榛葉家に送ったとの記述があり、そのことを根拠としているようだ。
 長野県の近年の郷土史研究で、榛葉氏の主君・小笠原氏が、歴史上さらさら越えが決行されたとされる1584年の夏季にのみ、徳川家に仕えていたことが明らかになっており、同年冬には徳川家との主従関係がなく道中の便宜を計ることはありえないとしている。
 また専門家の中には、家康の側近松平家忠が天正12年12月の「家忠日記」に「越中之佐々蔵助浜松へこし候」と記していることから、冬に東海地方に来たことは事実とみるが、冬山の難所である立山・ザラ峠を経たという説には疑問を持つ人も多く、ルートに様々な説が出ているという。
 その事について久保氏も、冬の立山越えは不可能に近く、仮にザラ峠を通っていなければ、さらさら越えとは言えないのではないかとも主張しているようだ。

曲輪の会 事務局



  • 歴史

2012年01月11日 11:44

砺波市の住宅地図にも載っておりますが、頼成新の永田又郎宅地内に「能景怐vと、そこから150メートルほど離れた田んぼの中に「為景怐vと呼ばれる塚があり、この二つの塚は戦国時代のものと伝承されており、もとはそれぞれ「宇佐美塚」「長尾塚」と呼ばれていたようです。

『栴檀野誌』に、出羽国の旧米沢城主上杉氏が、頼成新にあるという祖先の墓を調査するために伊佐早謙(上杉氏の家宰)を派遣し、その際、伊佐早謙から当時の永田家の当主又平に送られたという書状が載っています。

伊佐早謙永田又平ニ贈リシ書状
両古塚之儀ニ付篤ト相調候ニ、貴邸内ノ塚ハ宇佐美定行ト申伝候ハ誤謬ト在候、其所以左ニ
一、永正三年九月十九日、長尾信濃守能景、椎名慶親ト芹谷ニ於テ戦ヒ討死、法名高岳正統、此後ニ宇佐美某・水原某等諸将モ戦死セシコト、古文書ニ徴シテ明白ナリ
一、天文十四年、長尾信濃守為景、亦同所ニ於テ戦死ス、法名譲怒道七、但シ、宇佐美定行ハ戦死セズ、定行ハ永禄七年七月五日死去、其墓ハ越後魚沼郡上田庄雲洞村雲洞庵ニアリ、以テ貴邸内ノ塚ハ能景塚ナラン 下略
   明治三十二年六月廿五日      伊佐早謙
      永田又平殿


これにより、永田邸内の塚は「宇佐美塚」ではなく「能景塚」と呼ばれるようになったと思われます。
また「為景塚」においても『栴檀野誌』には長尾為景戦死のところで

為景越後ヲ略シテ主トナリ進ンテ越中ヲ併合セントスルノ意切ナリ天文十四年… 略 …為景謀計ヲ知ラズ兵ヲ馳セテ追撃シ自ラヲ陥穿ニ墜ツ江崎但馬鎗ヲ以テ之ヲ殺ス茲ニ於テ増山軍ノ士気大ニ振ヒ勇戦激闘ニ敵ヲ敗ル越後ノ兵先ヲ爭フテ本國ニ走レリ此際増山ノ三十六ヶ寺院戦勝ヲ祝シテ同時ニ梵鐘ヲ鳴ラシ天地ヲ震動セシメタリトイフ後為景ノ霊魂ヲ慰メ復千光寺僧正ヲシテ懇ニ葬ラシメ法名眞光院高岳正等大居士ト謚シ(千光寺過去帳)其ノ墳墓ヲ長尾塚ト稱ス今頼成新ニ在リ古来相侵ス者ナシ

とあります。
最も古いもので、宝永元年(1704)には頼成新村内の塚が「為景塚」と藩へ報告されていたようですが、明治初年の地図には「長尾塚」となり、またいつの頃からか「為景塚」にもどったようです。
      『栴檀野誌』抜粋『増山城跡総合調査報告書』参考

曲輪の会 事務局



  • 歴史

2011年05月30日 09:42

さて、いよいよ本題です。


長尾能景塚 (宇佐美塚)

能景塚は径10mほどの小さなマウンドをもった墳墓です。墳頂には五輪塔などの中世石造物の残骸が残されています。同じ頼成新のK宅には宇佐美塚から出土したという五輪塔が安置されています。かつて、鎌倉時代の珠洲焼の破片が見つかったこともあります。

能景の討死に関して、古文書の『本土寺過去帳』には「越中ニテ打死」、『反町十郎氏所蔵文書』には「般若野合戦討死」とあります。いずれも一級史料で信頼がおけるので、能景は頼成新あたりで敗死したのは、ほぼ間違いないでしょう。

千光寺には能景の位牌もありますし。



長尾為景塚 (長尾塚)

こちらにも小さな高まりをもったマウンドがあります。ただし、為景の没年には諸説ありますが、天文5年(1536)12月24日に春日山城下で没したというのが定説になりつつあります。ですから、般若野で亡くなったというのは無理があるので、長尾塚を為景塚とするのは史実ではありえません。ちなみに富山市婦中町牛滑にも為景塚が残されています。各地に為景塚が残っていることから、「為景と何らかの関係があった場所」と理解しておいたほうがよさそうです。

また、この塚は砺波市のふるさと文化財に指定されています。



為景塚、能景塚に関するお勉強は以上です。このブログ記事で予習をしたら、実際に現地を訪れてみることをおススメします。

これで塚に関する知識はバッチリですね!


曲輪の会事務局


  • 歴史

2011年05月30日 09:21



(↑白江秋広1992「頼成新の塚への一考察」『土蔵』第4号)

上の図をご覧ください。

図中の「長尾塚」が現在の為景塚、「宇佐美塚」が能景塚のこと。明治6年の段階では、このように呼ばれていたことがわかります。

それでは、いつから現在の呼称になったのでしょうか。

大正3年刊行の『栴檀野誌』によると、明治32年6月に米沢の上杉家から先祖の墓地調査のために、砺波市頼成新に使者が遣わされました。この時点以降、それぞれ為景塚・能景塚と呼ばれるようになったといわれます。

じつは、案外新しい呼び名なんですね。


曲輪の会事務局


  • 歴史

2011年05月30日 09:07

会員さんからお問い合わせがあったので、「長尾為景塚」と「長尾能景塚」のことについてご紹介したいと思います。

為景塚・能景塚について苦手意識をもっているアナタ!ぜひご一読のうえ、ガイド・スキルのアップにお役立てください!




まずは、日本人名大辞典から2人の武将についておさらいしておきましょう。


長尾能景

室町-戦国時代の武将。
長禄(ちょうろく)3年生まれ。越後(えちご)(新潟県)守護上杉房定(ふささだ),房能(ふさよし)父子の守護代をつとめた。永正(えいしょう)元年関東管領(かんれい)上杉顕定をたすけて武蔵(むさし)河越城(埼玉県)を攻める。越中(富山県)で一向一揆(いっき)とたたかい,永正3年9月19日戦死。48歳。


長尾為景

戦国時代の武将。
長尾能景(よしかげ)の子。上杉謙信の父。越後(えちご)(新潟県)守護代。永正(えいしょう)4年(1507)守護上杉房能(ふさよし)を敗死させ,その養子定実(さだざね)を守護とする。さらに房能の兄,関東管領上杉顕定(あきさだ)を攻めほろぼし,一国支配,戦国大名をめざす。晩年は国人衆との抗争をくりかえした。天文(てんぶん)11年ごろ死去したらしい。通称は六郎。



ポイントは、二人は親子であるということ。しかも為景が戦国の雄、上杉謙信(長尾景虎)の父であり、能景が祖父であるということ。ときどきゴッチャになるので、謙信→為景→能景の順番をシッカリ覚えておきましょう。


つづく


曲輪の会事務局


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