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ふるさと学芸員の小窓

ふるさと学芸員のブログです。砺波市の「ふるさと文化財」とは、地域の財産として親しまれ大切にされている文化的財産のことです。このブログで少しずつご紹介していきたいと思います。
メール furubun001@gmail.com
ホームページURL http://blog.city.tonami.toyama.jp/group/furusato/
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2011年12月01日 18:01




■館の土居(たちのどい)・砺波市東保

東般若地区は高池・大坪・坊村・田中・石坂という五つの集落からなっています。
前回は田中でしたが、今回は坊村から「館(たち)の土居」という中世の館跡についてご紹介します。
さて、館とか土居は武士の屋敷のことをいい、屋敷があったとされるのは現在坊村公民館がある一帯だと言われています。圃場整備以前の地図によると館の周囲に土塁(図では山の地目になっている)がめぐり、全体として方形をしていたことがわかります。そして、土塁の外側には堀跡とみられる帯状の細長い地割もあります。土塁に堀跡となれば敵の攻撃に対する防御設備ですね。時には戦もあったんでしょうか?
ところで、館の土居を直訳すると屋敷の屋敷になってしまい意味わからん状態で困っていたところ、一つ資料をみつけました。
この近くの照円寺の縁起によれば、ここがかつて「般若郷」の地頭(お役人さん)多智民部大輔政道(たちみんぶたいふまさみち)の館であり、のちに増山城主神保氏に所領を奪われ没落し、その後仏門に入り道空と称したとの伝えが記されています。東般若は、高坪遺跡・東保般若堂遺跡で須恵器片や平安時代から室町時代に至る珠洲陶が出土しており、鎌倉時代初頭の土師質皿が大量に出土した高池遺跡などとともに中世の歴史と関わる遺跡が多い土地です。高坪遺跡の須恵器片はあるいは東大寺荘園など古代の初期荘園と関わる可能性もあり、寛保元年(1741)に中条村から出土した常福寺鐘銘には「般若野庄地頭方東保郷」とあって、東保が般若野荘の下地中分による地頭であったことを証しています。
屋敷の屋敷じゃなく、多智屋敷(たちやしき)だから館の土居といわれるんですね。
市内には、この館の土居以外に鷹栖の小倉の土居、東宮森の御館山館などがあります。戦乱が続いた中世を物語る貴重な文化遺産であることをみんなで後世に守り継いで行けたらいいですね。


  • 史跡

2011年11月16日 16:59



■宮森廃寺跡・砺波市宮森

水田の圃場整備工事の際、宮森地内で15世紀前後の銅製仏具や珠洲陶、須恵器などが発見されました。限られた場所からの出土品は、独鈷杵(どっこしょ)、金剛盤(こんごうばん)、灑水器(しゃすいき)、塗香器(ずこうき)、閼伽桶(あかおけ)、提子(ひさげ)の6器種、9点を数える。これらはいずれも密教の法具で、その基本形式を踏襲しています。
周辺に残る小堂・大門・観音田・寺屋敷などの小地名とも合わせ、近くに廃寺があったものと推定されています。

密教について
 密教は奥深い教えで、はげしい修行をしたものでないと理解できないところから、秘密教ともいわれました。これに対して一般の仏教は顕教(聞く人の能力に応じて、わかるように説いた教え)と呼ばれました。
 密教はインドに起こりましたが、日本には空海が唐から持ち帰り、再編成して真言宗をひらきました。(これを東密といいます。)また、最澄やその弟子の円仁、円珍らも空海や唐から密教の思想を学び、天台宗の中に組み入れました。(これを台密といいます。)
 密教では曼荼羅をかけ、檀を築いて呪文をとなえ、護摩をたいて、病気の全快や、官位が上ることを祈る加持祈祷が行われました。そのおごそかな儀式が現世利益(仏の力により、この世で幸せになること)をもとめる当時の貴族たちに支持され繁栄しました。


  • 史跡

2011年11月15日 17:14



■午飯岡碑(ひるがおかひ)・砺波市小島

砺波で木曽義仲といえば、「火牛の計で倶利伽羅合戦に勝利した武将」でお馴染みであるが、小島には、その義仲が午飯(ひるいいと読み、ひるめしのこと)を食べたと言い伝えられている場所がある。高さ2m、面積約50uの小高い石塚だったが圃場整備事業の際に取り壊され、石碑のみが元の位置から約200m東に離れた現在地に移築された。
1183年(寿永2年)木曽で兵を挙げて京を目指していた義仲は、五万の軍勢を引きつれて般若野から砺波山へと向かった。ちょうど昼ごろ小島を通りかかり、少し小高い岡をみつけ午飯にした。一息入れた後、西宮森の川田八幡宮で戦勝祈願をして倶利伽羅山の合戦にのぞんだといわれている。以来、このことを村の誇りとして伝承がある。
明治時代になって石に刻んで残そうという機運が盛り上がり、小島出身の歴史家石崎謙氏に碑文を以来してこの石碑が建てられた。


川田八幡宮の標柱にも戦勝祈願のことが刻まれていた


木曽義仲ってどんな人?
1154(久寿元)年−1184(寿永3)年
木曽の山中で育つ
 義仲は源氏の武将、源義賢(よしたか)の二男に生まれました。義仲は、後に鎌倉幕府を開く源頼朝のいとこです。
 義仲が2歳のとき、父が頼朝の子に不意討され、信濃国(長野県)の木曽谷を支配する仲原兼遠のもとに預けられました。13歳で元服し「木曽義仲」と呼ばれるようになりました。
火牛の計で大軍を破る
 京の都では源氏と対立する平氏が政治の権力を握っていましたが、権力が強くなり過ぎた平氏に対する不満も高まっていました。
 26歳の義仲は地方の人々の幸せを強く願い、平氏を倒すため兵を挙げ、信濃から越後国(新潟県)を経て、越中国(富山県)に攻め込みました。これに対して平維盛(これもり)の軍勢は、加賀国(石川県)から越中に入り、両軍は倶利伽羅(くりから)で戦うことになりました。
 「源平盛衰記」によると義仲は平氏が眠っているすきに、角にたいまつを付けたたくさんの牛を先頭に攻撃を仕掛けました。これが「火牛(かぎゅう)の計」と呼ばれる作戦です。戦いは義仲の大勝利となりました。
 義仲は京に入って平氏を追い払い、征夷大将軍となって「朝日将軍」と呼ばれました。
※【征夷大将軍】武士をまとめる最高の位を意味します。この位を与えられた源頼朝は鎌倉幕府を開きました。
『ふるさととやまの人物ものがたり』H23.富山県教育委員会/発行 より

ちょっと「  」、(  )が多くて少し読みづらいけど、あればわかりやすいね…。
広報となみ2010.11月号にも詳しく紹介されています♪そちらもどうぞ。


  • 史跡

2011年10月12日 12:07



■千代ヶ様城(ちよがためしじょう)・砺波市庄川町庄

三条山頂部に山城がある。
縄張りからこの城は南北朝期の山城とみられている。
ではなぜここにお城があるのか?
北西の檀城とは約900メートル離れているが、尾根伝いの連絡路があり檀城の詰城として使われていたと考えられている。檀城は別名庄城ともいうが、南北朝時代には桃井氏の城、戦国期には木舟城城主石黒氏の城であった。
城の周囲は急な斜面となっていて、1本の尾根上に曲輪や堀切、土塁などが設けられている。削平が不十分な曲輪や浅くてあいまいな堀切などは迫力に欠ける部分と大規模な堀切や曲輪の縁にめぐる土塁などで戦国時代にも改修され使用されたことを物語る部分が残っており、その両者が混在している。
近くには隠尾城跡や鉢伏山城跡などもある。
ここは展望台や鉄塔あたりからの眺望が抜群にいい。(そこはやっぱり山城という役割があるからね。)砺波・小矢部方向が一望でき、江戸時代に流路を変える前の庄川の痕がはっきり分かる。
ブナ林や雑木も美しく、遊歩道もあるので歩きやすく本当に気持ちのいい場所。


庄川水記念公園からも約2キロで三条山登山口→関西電力の鉄塔を目印に山頂まで約3キロ。




  • 史跡

2011年09月29日 12:10




■安川城・砺波市安川字父倉

立地:丘陵頂部、標高192m
遺構:曲輪、土塁、堀
規模:250m×200m
城主:黒田太左衛門尉
時期:戦国
(とやま文化財百選シリーズ5「とやまのお城」より)

塩谷集落の南の丘陵に築かれ、「越中古城記」によると、長禄年中(1457〜60)後花園院皇子淳良親王が安川村薬勝寺に滞在していた折、般若郷の荘官に任じられた黒田太左衛門がのちに悪党を従えて当城にたて籠もったとある。中世般若野荘域などを意識した縄張りのようであり、築城の背景や城主などを考えるうえで一つの手がかりとなろうと市史にも紹介されている。
お城は別名、鬼ヶ城もしくは浅谷(浅野谷とも書く)村に隣接することから浅野谷(あさんたん)城とも言う。

城の防御は四方にあり、登ったルートは山頂までほぼ一本道。整備はされておらず、途中から「えっ、ここ登れるの?」とドキドキしながらも倒木を超え、熊笹やクモの巣と格闘しながら分け入るしかない状態である。縄張図を持っていると曲輪や途中にある古池らしき穴など確認しやすい。山頂のあたりは一面杉山で、1メートルを超える熊笹が生えている。(5,6月はそうでした。)
西側に砺波ロイヤルホテルの建物と目線が合い、その背後に砺波平野が見える。
素人ながら、この城の歴史価値が高まり今後整備されるなら「砺波の山城ショートコース」にピッタリなのでは?と思えるお城だ。


  • 史跡

2011年08月31日 17:05



■御上様塚・砺波市庄川町金屋西野々

戦国時代、庄地内の壇城(だんのじょう)が佐々成政に攻められたとき、城主神保安芸守の奥方は、落城寸前に井波方面に落ちのびようとした。しかし、この西野々高台まで来たとき、城がまさに焼け落ちようとする様子を目の当たりにし、落胆の余り狂い死にしたと伝わる。遺体は一時その地に埋められたが、後年菩提寺へ引き取る際、髪を埋めて塚とした。
瑞竜寺(高岡)の閑雲和尚は、その非業の死を悼んで村人を説き石碑を建てた。碑文には、戦国の世のはかなさが記されている。(御上様塚案内板より)

隣の観音堂は、付近の住民が奥方の供養に建立したものと伝わる。
観音像は金屋の代表的石工 森川栄次郎が1884年(明治17年)に制作したもの。堂内には灑水(しゃすい)観音・不動明王・地蔵も一緒に安置されている。
毎年10月に地蔵まつりがある。

塚より檀城を一望する。
視界が広がり檀城が意外に近く感じます。
わかりづらいですが、山が少しハゲてみえるのは舟戸橋を越えて三条山や鉢伏山行きの道路です。なのでその左手が檀城です。


  • 史跡

2011年08月26日 17:25



■小倉(おぐら)の土居・砺波市鷹栖

今日も朝から雨が降っていましたが、今は晴れ間がのぞいています。このところ急に涼しくなって体調を崩されている方をお見かけします。季節の変わり目は十分気をつけたいですね。
そんな私も先日小雨が降る中、確認作業のため小倉の土居にいましたが、帰ると体が冷たくなっていて夜にはちょっと熱っぽくなりました。

先に紹介した大矢四郎兵衛銅像から、県道371号線(本町・高木出線)を越えてしばらく行った、左手にお墓が立ち並んでいる場所が見えてくる。ここは「小倉の土居」と言って、鷹栖地区内の小倉殿(おぐらどの)館にいた土豪小倉六右衛門の子孫、小倉孫左衛門が居住した屋敷跡である。

これは単濠単廓式の舘で、水濠あとと推定されるところは見当たらないが、2〜3反程度の土居内の地積であるから、複廓式の二重土居でかこまれた舘とは考えられず、作人的小名主級の居館であって、屋敷内にはおそらく少数の名子・下人がいたであろうし、いわゆる作人小屋は廓外にあったものと思われる。
また、小倉の土居には金鶏伝説がつたえられている。「信長と戦って敗れた真宗の寺院のあとから一箇の金の茶釜が発見された。村人は大切にこの屋敷の一隅に埋めておいた。毎年正月元日の朝、金の鶏が此の小倉の土居の屋敷で夜明けの時をつげるという。」(『砺波市史』より)

資料を探しているときに、先の小倉殿(おぐらどの)館は、通称庄官屋敷ともいうが、土豪小倉六右衛門が戦国時代の明応年間に上杉家より土地を賜ったとつたわっている。とか、鷹栖なる地名の起源については、村内の長百姓居屋敷(小倉館・庄官屋敷)跡に鷹ノ巣多く、この地永年鷹の保護地であったから(鷹は農作に害ある鳥を捕り喰う)というのがあり、こっちも興味がわいてしまい、ふんふん!と思っているうちにまた脱線してしまった。
歴史は奥が深〜い。


  • 史跡

2011年08月17日 15:19



■宗半塚・砺波市庄川町庄

主要地方道新湊庄川線を車で走ると、庄川町庄金剛寺地区がある。
道路縁に教育委員会が設置した砺波市指定文化財とふるさと文化財の案内板横を東側に曲がり、恩光寺林道を上って行くと、右手に砺波市指定文化財である伝恩光寺跡の二本杉が見えてくる。
宗半塚はそこを過ぎてしばらく行った先の右手、林の中にある。

『加能郷土辞彙』によると、中川宗半(若名は清六、のちに光重)は、尾張(愛知県)出身で、初め織田信長に仕え、後に前田利家の娘蕭姫の婿となり利家に仕えた。増山在城時、宗半は一時滅びた恩光寺に重ねて寺禄を寄進し、同寺を再興したという。老後は恩光寺に退き、巨海斎宗半と号した。慶長19年(1614)53歳で没し、この地に葬られたと伝えられている。

市内では、増山城最後の城主ということでご存知の方も多いのでは…。

中川宗半が生まれたのは永禄5年(1562)。
その頃の増山城の出来事と言えば、
生まれる2年前、永禄3年(1560)、長尾影虎(のちの上杉謙信)が越中に出兵。神保長職は富山城から増山城へ逃げるも影虎の追撃に再び落ちのびる。
永禄11年(1568)には、増山城の神保長職が上杉方に属し、一向一揆と戦う。
謙信にとって増山城は因縁の城!
戦はあっちにつきこっちにつきと、生き残りをかけてまさに戦国時代!
天正14年(1586)、『上杉景勝上洛日記帳』には、上杉景勝が上洛の途中中田において中川清六(光重)の饗応を受ける。と記録があり24歳の城主宗半がおもてなしをしていた。

今、宗半ゆかりの城は平成21年国指定史跡となり、申し込みをすれば現地の専門解説員や解説ボランティア「曲輪の会」のメンバーが城跡をわかりやすく案内してくれます。遺構の他に歴史についても触れるので、必ず宗半の名は登場しますよ〜♪

★★お★ま★け★★
第3回 増山城戦国祭り 
日付:10月30日(日曜日) 
時間:10:00〜16:00
会場:増山城跡(砺波市増山)
問い合わせ先:増山城戦国祭り実行委員会
(栴檀野農村振興会館内)TEL/FAX 0763(37)2056


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2011年08月05日 18:11

■福山窯跡・砺波市福山

この窯は、山の斜面を利用した登り窯で奈良時代から平安時代初期に利用され、庄川右岸地域に比定される東大寺墾田地と強い関わりをもちながら操業したとみられる。
窯の全長12メートル、焚口の長さ1.6メートル、傾斜約35度。早くから須恵器とともに瓦塔(がとう)が出土したことで注目されてきた。

昭和15年 最初の瓦塔を発見
昭和24年 般若中学校科学班による試掘調査で土鈴が出土
昭和33年 砺波高校地歴部で試掘調査
昭和37年 砺波市史編纂委員会による発掘調査

37年の発掘では炭原及び窯体が検出され、多くの須恵器とともに新たな瓦塔も出土している。さらに翌年には楢崎彰一氏の現地踏査で窯体や出土品について指導を受けるなど、富山県下では最初に発掘調査された須恵器窯跡であることに加え、当時の第一線の研究者の来訪など学史的にも名高い遺跡である。

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瓦塔…奈良・平安時代を中心として造られた粘土焼成による塔。
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ちなみに、多数の出土品のうち五重の塔の模型である瓦塔(がとう)の部分三点、屋蓋(おくがい)部一点、軸部一点、水煙部一点、土馬(どま)部分一点、陶硯(とうけん)部一点は福山須恵器窯跡出土品として昭和43年7月に砺波市指定文化財になっている。


  • 史跡

2011年07月28日 10:52



■上水道記念碑・砺波市広上町

碑文は県立砺波中学校長吉波彦作氏、書は出町高等小学校長岡田直軌氏である。題字は 出町ゆかりの大阪商船株式会社社長堀啓次郎氏揮毛によるもの。
石は仙台石で手彫りの記念碑であったが、平成16年にけやき公園を整備中に破損したので、現在は補修して横に寝かせ保護されている。

北陸三県で最も早く敷設されたと言われているが、ここでちょっと歴史を振り返ってみよう。

出町の上水道の歴史
大正 2年(1913)水道敷設に向け着手
大正 7年(1918)工事費総額7万円で申請
大正 8年(1919)敷設を認可される
大正 9年(1920)施工準備、規模を拡張して11万1千円に変更
大正10年(1921)工事開始
大正11年(1922)更に5千円追加  合計11万6千円
大正12年(1923)水を通す
大正13年(1924)竣工

出町は元来地盤の関係上地下水が遠いので大部分が河水を以って飲料水にあてていた。従って井戸も公署関係か公衆用のものであった。(『出町のあゆみ』出町史刊行委員会発行より)

生活用水が河水ってことは、晴れた日はまだしも天気が悪いと泥水あるいは砂混じりの水を使っていたことになりますよね。残念ながら井戸水を掘るにも相当深く掘らなければならない出町では、疫病で死者が多数あったと石碑に記されてありました。工事も難航しいろいろ変化がありましたが、住民の安全を考えると優先事業であったことがよくわかります。
当初予算よりも大幅に増額されて完成した悲願の上水道敷設にはこんな歴史があったのですね。


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