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2012年06月12日  16:55

親王塚と公卿塚

先日は薬勝寺に伝わる縁起から親王塚のお話をしました。今日はまた別の説をお話します。





 般若地区の辺りは、中世には「般若野荘」と呼ばれ、京都の徳大寺家の荘園が展開されていました。12世紀初頭、徳大寺家領として成立した当初は広大な領域であったと思われますが、武家勢力の展開に伴って下地中分が行われ、領家としての徳大寺家の荘園経営は次第に困難になっていきました。
 そんな折、文明六年(1474)に、領主である徳大寺実淳は荘園での勢力を回復するためにはるばる京から越中へと下向しました。しかしその回復は叶わず、さらにその孫の実通も天文三年(1534)と同十四年(1545)に下向します。そして天文十四年の下向の際に、この地の武家・荘民によって従者の公卿ともども殺されてしまいます。その実通を葬ったとみられるのが親王塚であるという説もあるのです。淳良親王の伝承は徳大寺実淳の越中下向から転化したのかもしれないといわれています。
 伴に殺害された従者は、薬勝寺から300メートルほど南にある「公卿塚(九人塚)」に葬られたとされます。

【下地中分】
中世に地頭の勢力が徐々に強大になった際、地頭が耕地の拡大や自らの支配権の拡大に努めたので荘園領主や所領近隣の武士との間で紛争を起こすことが多くなった。その解決方法のひとつとしてとられたのが「下地中分」という取り決めで、この方法によって荘園の土地自体を折半し、地頭と領主とが土地・住民をわけて完全な支配権を認め合った。


 さて、そんな親王塚の法要は明日です。

6月13日(水)
10時半〜 開山忌(薬勝寺の開山僧の法要)
13時半〜 大般若会(親王塚の法要)
場所:薬勝寺本堂(砺波市安川29)

 この機会にお参りされてみてはいかがでしょうか。





※ちなみに親王塚の上にある宝篋印塔は、南北朝期から室町初期に造立されたものと推定されています。般若野荘で殺害されたと思われる徳大寺実通と、宝篋印塔そのものは時代的にズレがありますが、墳墓については定かではありません。薬勝寺には南北朝期に造立された層塔の塔身の一部や、南北朝期までさかのぼる五輪塔の残欠があります。親王塚は、墳墓とその上に置かれた宝篋印塔を別にして考えるべきという考えもあります。


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