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増山城跡 

公開日時:2011年05月17日 09時07分 このページを印刷する

■増山城跡(ますやまじょうあと)

平成21年7月23日・国指定
砺波市増山
【全国山城サミット加盟城郭】

 増山城跡は、富山県西部に展開する砺波平野東縁、標高約120mの丘陵上に立地し、平野全域をほぼ眼下におさめる大規模な中世山城である。城の西側を南北に蛇行して流れ、深い谷を形成する和田川の対岸には城下町遺跡がある。

 増山城が所在する地は和田ともといわれ、南北朝の史料にみえる「和田城」が増山城の初見とされている。この地は交通の要衝に位置し砺波、射水、婦負の三郡の境にあって、戦国期から織豊期にかけて、多くの武将の攻防の舞台となり、これに応じて城は変遷した。戦国期には越中守護畠山氏の守護代神保氏が勢力をのばしたが、一向一揆勢、越後長尾(上杉)氏との狭間にあった。永禄3年(1560)上杉謙信が攻め込むと、神保長職は富山城を放棄して増山城へ移ったが、謙信の相次ぐ侵攻を受け、天正4年(1576)に増山城は落城した。謙信が没すると織田信長勢が進出し、天正9年(1581)に城は織田勢により焼き払われ、天正11年、信長配下の佐々成政の越中平定以降、その居城となった。その後、豊臣秀吉が越中に侵攻し、天正13年成政は降伏した後、前田利家の重臣中川光重が城に入り、慶長年間頃まで存続したと考えられる。


神保慶宗、長尾能景、長尾為景、そして上杉謙信らの名将が戦った戦乱の舞台 〔位置図〕

■城の縄張と防御施設
砺波市教育委員会は、平成9年から平成15年にかけて測量・発掘調査を実施した。増山城跡は、和田川東岸の南北約1.4㎞、東西0.9㎞の広大な範囲に及び、二つの谷によって城域は南北におおよそ3つに分けられる。

 中央に増山城の中心部、北に亀山城、孫次山砦、南に増山城の赤坂山屋敷・団子地山屋敷がある。城の主郭は二の丸と考えられる。二の丸は標高が最も高く、東西90m、南北50mの最大規模をもち、北東隅に櫓台が設置されている。これに加えてこの郭を囲むように四方に一ノ丸、安室屋敷、三ノ丸、無常の郭群が配置して中心部を固めている。東側から南側にかけては長さ300mにも及ぶ長大な堀切を二重に配し、さらに畝状竪堀群を設置して和田川を最外周の外堀にするなど、強固な防御線を構築している。


二ノ丸と安室屋敷の間にある空堀 二ノ丸南側の空堀で検出した焼土層

■出土遺物と城下町
 出土遺物は国産・中国産の陶磁器類、釘、銭貨、砥石、碁石、漆塗椀などの木製品、炭化米がある。年代比定が可能な土師器皿には16世紀中葉のものがあり、縄張の基礎が神保氏によって造られた可能性を示すが、主体は16世紀後半から末頃にあることから、神保氏の後、上杉、佐々、前田各氏によって大規模な改修・拡充がおこなわれたものと推定される。江戸時代は加賀藩の藩有林となり富山県を代表するマスヤマスギが育成され、現在は富山県定公園及びとやま森林浴の森として市民・県民に親しまれている。

 一方、和田川西岸には城下町が展開していた。堀を伴う長さ約80mの南北の土塁をはさんだ東側に「下町」、西側に「寺土居町」がある。東側は昭和43年にできたダム湖によってほぼ水没しているが、昭和52年度に行われた圃場整備に伴う発掘調査では、16世紀末から17世紀にかけての遺構・遺物が豊富に出土し、佐々氏から前田氏の時代に城下町が整備されたことが知られる。

 このように増山城跡は、戦国期から織豊期に北陸地方の覇権形成において重要な役割を果たし、富山県内屈指の規模と防御機能が発達した縄張を有する城であり、越中を代表する中世城郭である。

地図(地図)

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