砺波平野の集落は、緑豊かな屋敷林に囲まれた家々が、平野一面に碁石を散りばめたように点在する典型的な散居集落です。その美しい風景は、日本の稲作農村を代表する景観のひとつといえましょう。
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散居村の農家では、家のまわりの耕地をその家が耕作しています。このこと
がこの散居村の成立と深い関係があります。砺波平野は主に庄川の作った扇状 地です。かつて、庄川扇状地の未開拓地を開くにあたっては、微高地の耕土の
厚いところを選んで住居を定め、その周囲を開いていきました。その場合、水 の豊かな扇状地のため、どこでも容易に水を引くことができ、地形的な制約と
いうものがそこにはありませんでした。そのため、家々は散らばり、それぞれ の周囲を耕作するようになりました。
このような散居村の形ができたのは、砺波平野の開拓が急速に進む中世末か ら近世初頭にかけてです。その後、集村化することなく現在までこの形が続い
たのは、この形が農業経営の上で有利だったからです。つまり、自分の耕作す る田が自分の家の囲りにあれば、田に肥料を運び出したり、刈って干しあがっ
た稲を取り込んだりすることが容易にでき、日常の水の管理にも都合がよかっ たのです。
加賀藩の政策である田地割(※)は、くじによって各農家の耕作田がばらばらにな るわけですから、この村落形態の特性と相容れないものでした。しかし、藩は
この村落形態での農業経営上の利点を認めていたために、引地、替田を生むの でした。農民の方からしても、田地割に従って経営農地が分散してしまうこと
は不利であるため、藩が認めた一定の引地のほか、活発に替田を行って、この 村落形態の有利性を維持しようとしました。
こうして、砺波平野では、この村落形態が現在まで続くことになったのです。
※田地割 一村内の各自の耕作地を持高をかえずにくじで交換すること。
このような形態は、全国では出雲の斐川(ひかわ)平野、静岡県の大井川扇 状地、北海道の十勝平野など、富山県内でも黒部川や常願寺川、神通川などの
扇状地の一部に見られますが、広さにおいても散居の仕方においても砺波平野 がもっとも典型的です。
散居村地帯の広さは約220平方q、散居民家約7000戸を数えます。
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農家を取り巻く屋敷林はカイニョと呼ばれ、その起源については定かではありませんが、平野の開拓時にさかのぼり、原生林の一部を屋敷林として残したものと思われます。
砺波平野は三方が山に囲まれた盆地状の平野で、冬は雪が降って寒く、夏は 30度を超す日が続く暑さです。また、一年を通じて西風が吹きます。厳しい
冬の風雪と夏の暑さを防ぐためにも屋敷林は欠くことのできないものでした。
屋敷林を構成する樹種やその配置には、木と共に生活した先人の知恵とその 心の豊かさを潜めた生活文化の一端が見られます。
砺波平野の屋敷林はスギが主体です。スギは防風効果もあり、落ち葉や小枝 は燃料となり、また、その材は建築用材ともなります。また、分家の際には栗
・柿・梅を植え、花を鑑賞し、実は食料とし、ときには金銭に代えたりしまし た。女の子が生まれると桐の木を植え、嫁入りに備えたりもしました。「高
(土地)を売ってもカイニョは売るな」ともいわれ、先祖代代大切に守り育て られました。
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砺波平野の農家は、大きな切妻を見せて屋敷林に囲まれて平野一面に散在す
るのが特徴です。こういった大きな切妻屋根の家を地元ではアズマダチと呼びます。
しかし、農家は本来すべて茅葺きであり、アズマダチが普及するのは明治以降の ことです。玄関から入った広い枠の内造りの広間と同じ広さの茶の間を斜め後
ろに取り、座敷、仏間を前に向けるというのが典型的な砺波型の間取りです。 |