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増山城解説ボランティア 曲輪の会

増山城解説ボランティア養成講座の修了生を中心としたお城好きのグループです。国指定史跡「増山城跡」のガイド活動をはじめ、増山城跡でのイベントや定期的に各地のお城を訪れる「城攻め」などを行って楽しんでいます。文化庁の市民から文化力プロジェクトに参加しています。
メール kuruwano@gmail.com
ホームページURL http://blog.city.tonami.toyama.jp/group/kuruwa/
設立日 2010(平成22)年10月
会員数 38名
増山城戦国Tシャツ http://blog.city.tonami.toyama.jp/group/kuruwa/detail.jsp?id=1463
市民から文化力 http://www.bunkaryoku.bunka.go.jp/cgi-bin/shimin/detail.php?id=127
主な活動 2015.10.25 全国山城サミットin米原に出陣
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2017年10月24日 14:05

本日(10月24日)台風一過の増山城跡に登った。大きな被害はなかったがそれでもやはり倒木や無数の小枝、元の地面が見えないくらいのスンバ(杉葉)があった。

F郭下  倒木が完全に道をふさぐ。

F郭   道に覆いかぶさった倒木。

F郭⇔又兵衛清水  小さな土砂崩れ

馬ノセゴ 根こそぎ倒れた大木

この他にも倒木が数か所ありました。土砂崩れがほとんどなかったのが幸いでした。
            
本保澄雄


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2017年10月17日 09:14

映画『関ヶ原』を見た。映画には出てこないが、関ヶ原の合戦において、前田利長は徳川秀忠と同様、関ヶ原に遅れた武将だった。これには一説には増山城最後の城主・中川光重(この時期豊臣秀頼の近習として大阪にあった)のにせ手紙
かかわっているといわれている。(諸説あり)。
当時の状況
前田利長は 母・まつ を徳川の人質として差し出していたので東軍に味方するしかなかった。
1600年
7月25日 家康は会津へ向け進軍中,石田三成の挙兵を知り反転し上方へ向かった。
7月26日 加賀・前田利長は2万5千の兵を率いて南加賀へ向かう。(この時期、北陸は大谷吉継の策により利長以外は西軍)
8月3日 利長、小松を攻め落とす。さらに金津まで進む。
8月4日 金津で8月3日付の中川光重の手紙に驚き急ぎ金沢へ引き上げる。
8月8日 利長、金沢へ引き上げの途中、丹羽軍の襲撃を受ける。(浅井畷(なわて)の戦い)。
8月10日 利長金沢へ帰還。高山右近に命じて惣堀構を作らせ大谷吉継の軍に対する防御態勢を固める。
8月13日 家康から 東軍に早く合流せよとの手紙が来るが、利長は内部体制の確立と、弟・利政の出兵拒否のため足踏み。
9月8日 再度家康から出陣要請の手紙。
9月11日 弟・利政を能登に残し、関ヶ原へ向け進軍。
9月14日 進軍中に東軍の勝利を聞く。利長は関ヶ原に遅れた武将となった。
10月17日 家康による論功行賞。加賀は80万石から120万石に加増となった。
1601年9月 徳川秀忠の娘 珠姫。前田家に輿入れ。 利常9歳  珠姫3歳。

中川光重の手紙
「大谷吉継が北陸の総大将として利長を攻略するため越前から4万の大軍を率いて出陣、水陸から留守の金沢城を攻め取る」というもの。

大谷吉継 (西軍・石田三成の盟友)の計略にかかり、光重が金沢へ帰る途中大谷吉継に抑留、脅迫されやむなく書かさせられた手紙であったといわれている。
結果的には利長の南進を1ヵ月以上も遅らせた。



          
 本保澄雄
 参考図書  池田公一 『名君 前田利家』新人物往来社
         山本和代子 『古城万華鏡』 桂書房
         見瀬和雄 『利家・利長・利常』 北国新聞社
 


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2017年10月10日 07:33

第9回増山城戦国祭り 《城攻めウオーク クイズラリー》の答えの説明(その3)です。

問6 最後の城主の妻で、利家とまつの二女は @幸(こう)A豪(ごう)B蕭(しょう) の3つの内、答えはB蕭(しょう)です。

 ・幸(こう)長女。前田長種・室。長種と協力し守山城で3代藩主利常を養育した。

 ・豪(ごう) 四女。秀吉養女⇒宇喜多秀家・室
こどもに恵まれなかった秀吉が利家に「今度生れてくる子が女の子だったら養子にくれ」と頼んだことから秀吉の養女となった。
 関ヶ原の合戦で宇喜多秀家が西軍に属したため関ヶ原後秀家は遠島の処罰を受けた。このため豪は金沢へ戻る。処罰は明治初めまで続いた。この間加賀藩は宇喜多へ莫大な援助を続けた。

 ・蕭(しょう) 増山城最後の城主中川光重・室。光重が前田家を離れた期間増山城を守った。

問7 増山城の中で唯一、建物が発掘されたのは @法花坊峠遺構A二ノ丸B無常 の3つの内、答えは、@法花坊峠遺構です。
 
 ・法花坊峠遺構 16世紀後半と8世紀後半の2時期の遺構・遺物を確認。城内跡内で初めて堀立柱建物(方1間)が検出された。建物廃棄後に穴をあけた土師器皿を柱穴に埋納していることがわかった。中世以降の下層に奈良・平安時代の竪穴建物が3棟検出された。 近くの須恵器窯である池の平窯があることから窯工人の作業小屋であった可能性がある。 

  ・二ノ丸 平坦面の発掘調査は行っていない。

  ・無常 発掘では、鐘撞堂直下の空堀から斜面の岩盤を掘り込んで作られた階段状遺構が発見された。

3回に分けてクイズラリーの答えの説明を書きましたが、文章の不統一、文字配列等に不備があり読みづらいものになってしまいました。すみません。間違っているところもあると思います。是非教えてください。

     

本保澄雄 090-7086−5074


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2017年10月08日 10:34

第9回増山城戦国祭り  《城攻めウオーク クイズラリー》の解答の説明の続きです。今回は問4・問5の説明です。

問4 越中3大山城でないのは @森寺城A松倉城B守山城 の3つの内、答えは@森寺城です。

 富山県には約400の山城があります。このうち3大山城と言われているのは 増山城、松倉城 守山城です。

 ・増山城(砺波市)国指定史跡。続・日本100名城
 南北朝時代から。戦国時代には神保氏の拠点。その後上杉氏⇒佐々氏⇒前田氏が使用。最後の城主は中川光重。

 ・松倉城(魚津市)県指定史跡
 南北朝時代から。室町時代には椎名氏。後上杉氏の越中支配の拠点。

 ・守山城(高岡市)能登、加賀、越中の交通の要所だった小矢部川左岸に築かれた。 南北朝時代。桃井直常の築城か? 神保⇒上杉⇒前田の居城。前田利長が13年間城主。城代・前田長種。西側切岸の斜面に石垣が残る。
神保氏最後の城主は神保氏張。末裔は徳川に仕え江戸に住んだ。現在の神田・神保町の地名の起源。 また高岡市守山地内に「ツツマドン」という地名がある。これは前田対馬守長種の屋敷があった場所とされている。【つしまどの⇒ツツマドン】
三代藩主前田利常は幼少の頃、長種と室・幸によってこの城で養育された。 市指定史跡
 

   守山城 左側平坦なところが本丸跡。右側高いところが二上山頂

 ・森寺城(氷見市) 16世紀初め能登畠山氏が築城。その後上杉⇒佐々氏の支城。中心部に残る石垣は佐々氏が築いたものと思われる。

問5 増山城の中心は @一ノ丸A二ノ丸B三ノ丸の3つの内、 答えはA二ノ丸です。

 ・二の丸は
  @城内最高所。主要城郭の中心
  A隅櫓とセットになった虎口の存在
  B城内最大規模の櫓台の存在
 周囲の郭は二ノ丸を囲むようにしてあり、敵が最も攻めにくい場所であることから城の中心と考えられる。    
本保澄雄


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2017年10月08日 07:06

前回(10/2)第9回戦国祭り 《城攻めウオーク クイズラリ》の問題及び解答を載せました。
 今回は解答に対する簡単な説明です。この説明はあくまで私の個人の考えですので間違ったものもあると思います。ご意見をお待ちしています。

問1 増山城を一番長く支配したのは @神保氏A上杉氏B前田氏。 の内、答えは @神保氏です。
     神保氏 1467〜1572  約100年間
     上杉氏 1576〜1580  約4年間
     前田氏 1585〜1603頃 約18年間

問2 増山城は砺波郡、射水郡、 @新川郡A東砺波郡 B婦負郡の境にあった。 の内、答えは B婦負郡です。
 



問3 上杉謙信が増山城へ攻めてきたのは、@1回A2回B3回. の内、 答えはB3回です。
  謙信は越中へ10回攻め上がっています。(富山市郷土博物館 「特別展 謙信越中出馬」展示資料より)  
このうち3回は増山城を攻めています。
  第1次増山城攻め 永禄3(1560)3〜5月
  第2次増山城攻め 永禄5(1562)9月〜10月
  第3次増山城攻め 天正4《1576)8月 〜天正5(1577)4月

今回は第1〜3問目までだけです。
(誤字、脱字、変換相違 お許しください)
 
本保澄雄

    


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