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増山城解説ボランティア 曲輪の会

増山城解説ボランティア養成講座の修了生を中心としたお城好きのグループです。国指定史跡「増山城跡」のガイド活動をはじめ、増山城跡でのイベントや定期的に各地のお城を訪れる「城攻め」などを行って楽しんでいます。文化庁の市民から文化力プロジェクトに参加しています。
メール kuruwano@gmail.com
ホームページURL http://blog.city.tonami.toyama.jp/group/kuruwa/
設立日 2010(平成22)年10月
会員数 38名
増山城戦国Tシャツ http://blog.city.tonami.toyama.jp/group/kuruwa/detail.jsp?id=1463
市民から文化力 http://www.bunkaryoku.bunka.go.jp/cgi-bin/shimin/detail.php?id=127
主な活動 2015.10.25 全国山城サミットin米原に出陣
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2017年11月28日 10:41

 去る9月28日七尾市津向町を通った。「観光ボランティア北陸大会in七尾」で現地研修の際バスで通過したのである。中川光重が蟄居したあの津向町である。
 10月27日ブログに中川光重のにせ手紙事件を載せたがここではその追加分として増山城主前後の中川光重のことを書いてみた。

1562年((永禄5) 光重生誕
   〜
1584年(天正12) 前田利長に砺波・射水・婦負の3郡が与えられた。このころ増山城主に            なったと推定される。
1586年(天正14) 中田で上杉景勝をもてなす。
1594年4月(文禄4.4)〜1595年6月(文禄5.6) この時期に七尾城(一説には金沢城)修城の課役を怠り利長から七尾村津向に蟄居を命じられた可能性大。
その後いくばくもなく秀吉に仕える(3千石)
1596年8月(慶長元) 浪人中。この時期にはまだ前田家への復帰はなかった可能性。
1599年3月(慶長4) 利長の子の養育に努めており、慶長の早い時期に前田家へ復帰したと思われる。(2万3千石)
1603年(慶長8) 蕭姫 没(41歳)
1611年(慶長16) 隠居 隠居後宗半または巨海斎と号した。(1590年頃から宗半と称して            いたという説もある)
1614年(慶長19)没(53歳) 増山城において没したと考えられる。(以下次回)


 (年号については諸説あり。ここでは主として老松邦雄さんの『増山城最後の城主中川宗半(光重)と蕭』に従った。   


参考図書 老松邦雄 『増山城最後の城主中川宗半(光重)と蕭』 インターネット
     童門冬二 『加賀前田家の処世術』 北国新聞社
     池田公一 『名君前田利長』  新人物往来社
     山本和代子 『古城万華鏡』 桂書房

                  
本保澄雄


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2017年11月08日 19:20

10月23日に県内に最接近した台風21号は、増山城跡にも爪痕を残したが、さてその復旧は?
 本日(11月8日)、前回(10月24日)掲載した被害場所を見て歩き、あわせて初冬の増山城を楽しんだ。


F郭 倒木は整理されすっきりした道

 

除去されカットされた倒木

 馬之背ゴの倒木、又兵衛清水付近の小さな土砂崩れは増山城探索に直接の影響はないためにそのまま。


馬洗い池⇔神保氏入水の井戸 間にあった倒木もきれいに片づけられていた。


初冬(11月7日立冬)の増山城
2件
 



砺波市教育委員会 生涯学習・スポーツ課の素早い対応に感謝。
山城はこれからが絶好の探索時期。一人でも多くの登城者を期待。
                  
本保澄雄


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2017年11月07日 16:02

11月4日 「曲輪の会」で  「じっくり古文書講座ー永禄三年の長尾景虎書状を読むー」 が行われました。 14、5名の参加がありました。

講師は 「曲輪の会」会員の川幡拓未 さん
教材は  永禄三年 四月二十八日 佐竹(義昭)宛て 長尾景虎書状
 あの有名な「…増山之事、元来嶮難之地、…」の書状(一部略)でした。

 講座内容は 古文書そのものを解読するものではなく、翻字、訓点付き文書の「読み下し文」の解説及びこの書状が書かれたいきさつや当時の越中の越中の状況などについての詳しい説明でした。

 レジメ資料として
 〇四月二十八日付長尾景虎書状(原文)翻字訓点付き
 〇同上(読み下し文)
 〇語句解説、助詞、下から返ってって読む字
 〇永禄三年の戦いの後の経過
など、親切に解説されており、大変わかり易いものでした。

また当時の様子を詳しく解説され大変参考になりました。これだけの資料作成大変だったと思います。川幡先生に本当に有難うございました。
 次回の講座を期待しています。


現在、富山市郷土博物館で「特別展 謙信越中出馬」が開催されています。(11月12日まで)
 同展には上記書状は展示してないようですが第3次増山城攻(天正4年)に際し 栗林次郎左衛門尉殿宛ての書状が展示してあります。

本保澄雄


  • イベント

2017年10月24日 14:05

本日(10月24日)台風一過の増山城跡に登った。大きな被害はなかったがそれでもやはり倒木や無数の小枝、元の地面が見えないくらいのスンバ(杉葉)があった。

F郭下  倒木が完全に道をふさぐ。

F郭   道に覆いかぶさった倒木。

F郭⇔又兵衛清水  小さな土砂崩れ

馬ノセゴ 根こそぎ倒れた大木

この他にも倒木が数か所ありました。土砂崩れがほとんどなかったのが幸いでした。
            
本保澄雄


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2017年10月17日 09:14

映画『関ヶ原』を見た。映画には出てこないが、関ヶ原の合戦において、前田利長は徳川秀忠と同様、関ヶ原に遅れた武将だった。これには一説には増山城最後の城主・中川光重(この時期豊臣秀頼の近習として大阪にあった)のにせ手紙
かかわっているといわれている。(諸説あり)。
当時の状況
前田利長は 母・まつ を徳川の人質として差し出していたので東軍に味方するしかなかった。
1600年
7月25日 家康は会津へ向け進軍中,石田三成の挙兵を知り反転し上方へ向かった。
7月26日 加賀・前田利長は2万5千の兵を率いて南加賀へ向かう。(この時期、北陸は大谷吉継の策により利長以外は西軍)
8月3日 利長、小松を攻め落とす。さらに金津まで進む。
8月4日 金津で8月3日付の中川光重の手紙に驚き急ぎ金沢へ引き上げる。
8月8日 利長、金沢へ引き上げの途中、丹羽軍の襲撃を受ける。(浅井畷(なわて)の戦い)。
8月10日 利長金沢へ帰還。高山右近に命じて惣堀構を作らせ大谷吉継の軍に対する防御態勢を固める。
8月13日 家康から 東軍に早く合流せよとの手紙が来るが、利長は内部体制の確立と、弟・利政の出兵拒否のため足踏み。
9月8日 再度家康から出陣要請の手紙。
9月11日 弟・利政を能登に残し、関ヶ原へ向け進軍。
9月14日 進軍中に東軍の勝利を聞く。利長は関ヶ原に遅れた武将となった。
10月17日 家康による論功行賞。加賀は80万石から120万石に加増となった。
1601年9月 徳川秀忠の娘 珠姫。前田家に輿入れ。 利常9歳  珠姫3歳。

中川光重の手紙
「大谷吉継が北陸の総大将として利長を攻略するため越前から4万の大軍を率いて出陣、水陸から留守の金沢城を攻め取る」というもの。

大谷吉継 (西軍・石田三成の盟友)の計略にかかり、光重が金沢へ帰る途中大谷吉継に抑留、脅迫されやむなく書かさせられた手紙であったといわれている。
結果的には利長の南進を1ヵ月以上も遅らせた。



          
 本保澄雄
 参考図書  池田公一 『名君 前田利家』新人物往来社
         山本和代子 『古城万華鏡』 桂書房
         見瀬和雄 『利家・利長・利常』 北国新聞社
 


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