Tonami Blogへ
ID パスワード
このblogのトップへ戻る

増山城解説ボランティア 曲輪の会

増山城解説ボランティア養成講座の修了生を中心としたお城好きのグループです。国指定史跡「増山城跡」のガイド活動をはじめ、増山城跡でのイベントや定期的に各地のお城を訪れる「城攻め」などを行って楽しんでいます。文化庁の市民から文化力プロジェクトに参加しています。
メール kuruwano@gmail.com
ホームページURL http://blog.city.tonami.toyama.jp/group/kuruwa/
設立日 2010(平成22)年10月
会員数 38名
増山城戦国Tシャツ http://blog.city.tonami.toyama.jp/group/kuruwa/detail.jsp?id=1463
市民から文化力 http://www.bunkaryoku.bunka.go.jp/cgi-bin/shimin/detail.php?id=127
主な活動 2015.10.25 全国山城サミットin米原に出陣
前のページ
1  | 2  | 3  | 4  | 5  | 6  | 7  | 8  | 9  | 10
次のページ

2017年11月08日 19:20

10月23日に県内に最接近した台風21号は、増山城跡にも爪痕を残したが、さてその復旧は?
 本日(11月8日)、前回(10月24日)掲載した被害場所を見て歩き、あわせて初冬の増山城を楽しんだ。


F郭 倒木は整理されすっきりした道

 

除去されカットされた倒木

 馬之背ゴの倒木、又兵衛清水付近の小さな土砂崩れは増山城探索に直接の影響はないためにそのまま。


馬洗い池⇔神保氏入水の井戸 間にあった倒木もきれいに片づけられていた。


初冬(11月7日立冬)の増山城
2件
 



砺波市教育委員会 生涯学習・スポーツ課の素早い対応に感謝。
山城はこれからが絶好の探索時期。一人でも多くの登城者を期待。
                  
本保澄雄


  • 未分類

2017年11月07日 16:02

11月4日 「曲輪の会」で  「じっくり古文書講座ー永禄三年の長尾景虎書状を読むー」 が行われました。 14、5名の参加がありました。

講師は 「曲輪の会」会員の川幡拓未 さん
教材は  永禄三年 四月二十八日 佐竹(義昭)宛て 長尾景虎書状
 あの有名な「…増山之事、元来嶮難之地、…」の書状(一部略)でした。

 講座内容は 古文書そのものを解読するものではなく、翻字、訓点付き文書の「読み下し文」の解説及びこの書状が書かれたいきさつや当時の越中の越中の状況などについての詳しい説明でした。

 レジメ資料として
 〇四月二十八日付長尾景虎書状(原文)翻字訓点付き
 〇同上(読み下し文)
 〇語句解説、助詞、下から返ってって読む字
 〇永禄三年の戦いの後の経過
など、親切に解説されており、大変わかり易いものでした。

また当時の様子を詳しく解説され大変参考になりました。これだけの資料作成大変だったと思います。川幡先生に本当に有難うございました。
 次回の講座を期待しています。


現在、富山市郷土博物館で「特別展 謙信越中出馬」が開催されています。(11月12日まで)
 同展には上記書状は展示してないようですが第3次増山城攻(天正4年)に際し 栗林次郎左衛門尉殿宛ての書状が展示してあります。

本保澄雄


  • イベント

2017年10月24日 14:05

本日(10月24日)台風一過の増山城跡に登った。大きな被害はなかったがそれでもやはり倒木や無数の小枝、元の地面が見えないくらいのスンバ(杉葉)があった。

F郭下  倒木が完全に道をふさぐ。

F郭   道に覆いかぶさった倒木。

F郭⇔又兵衛清水  小さな土砂崩れ

馬ノセゴ 根こそぎ倒れた大木

この他にも倒木が数か所ありました。土砂崩れがほとんどなかったのが幸いでした。
            
本保澄雄


  • 未分類

2017年10月17日 09:14

映画『関ヶ原』を見た。映画には出てこないが、関ヶ原の合戦において、前田利長は徳川秀忠と同様、関ヶ原に遅れた武将だった。これには一説には増山城最後の城主・中川光重(この時期豊臣秀頼の近習として大阪にあった)のにせ手紙
かかわっているといわれている。(諸説あり)。
当時の状況
前田利長は 母・まつ を徳川の人質として差し出していたので東軍に味方するしかなかった。
1600年
7月25日 家康は会津へ向け進軍中,石田三成の挙兵を知り反転し上方へ向かった。
7月26日 加賀・前田利長は2万5千の兵を率いて南加賀へ向かう。(この時期、北陸は大谷吉継の策により利長以外は西軍)
8月3日 利長、小松を攻め落とす。さらに金津まで進む。
8月4日 金津で8月3日付の中川光重の手紙に驚き急ぎ金沢へ引き上げる。
8月8日 利長、金沢へ引き上げの途中、丹羽軍の襲撃を受ける。(浅井畷(なわて)の戦い)。
8月10日 利長金沢へ帰還。高山右近に命じて惣堀構を作らせ大谷吉継の軍に対する防御態勢を固める。
8月13日 家康から 東軍に早く合流せよとの手紙が来るが、利長は内部体制の確立と、弟・利政の出兵拒否のため足踏み。
9月8日 再度家康から出陣要請の手紙。
9月11日 弟・利政を能登に残し、関ヶ原へ向け進軍。
9月14日 進軍中に東軍の勝利を聞く。利長は関ヶ原に遅れた武将となった。
10月17日 家康による論功行賞。加賀は80万石から120万石に加増となった。
1601年9月 徳川秀忠の娘 珠姫。前田家に輿入れ。 利常9歳  珠姫3歳。

中川光重の手紙
「大谷吉継が北陸の総大将として利長を攻略するため越前から4万の大軍を率いて出陣、水陸から留守の金沢城を攻め取る」というもの。

大谷吉継 (西軍・石田三成の盟友)の計略にかかり、光重が金沢へ帰る途中大谷吉継に抑留、脅迫されやむなく書かさせられた手紙であったといわれている。
結果的には利長の南進を1ヵ月以上も遅らせた。



          
 本保澄雄
 参考図書  池田公一 『名君 前田利家』新人物往来社
         山本和代子 『古城万華鏡』 桂書房
         見瀬和雄 『利家・利長・利常』 北国新聞社
 


  • 未分類

2017年10月10日 07:33

第9回増山城戦国祭り 《城攻めウオーク クイズラリー》の答えの説明(その3)です。

問6 最後の城主の妻で、利家とまつの二女は @幸(こう)A豪(ごう)B蕭(しょう) の3つの内、答えはB蕭(しょう)です。

 ・幸(こう)長女。前田長種・室。長種と協力し守山城で3代藩主利常を養育した。

 ・豪(ごう) 四女。秀吉養女⇒宇喜多秀家・室
こどもに恵まれなかった秀吉が利家に「今度生れてくる子が女の子だったら養子にくれ」と頼んだことから秀吉の養女となった。
 関ヶ原の合戦で宇喜多秀家が西軍に属したため関ヶ原後秀家は遠島の処罰を受けた。このため豪は金沢へ戻る。処罰は明治初めまで続いた。この間加賀藩は宇喜多へ莫大な援助を続けた。

 ・蕭(しょう) 増山城最後の城主中川光重・室。光重が前田家を離れた期間増山城を守った。

問7 増山城の中で唯一、建物が発掘されたのは @法花坊峠遺構A二ノ丸B無常 の3つの内、答えは、@法花坊峠遺構です。
 
 ・法花坊峠遺構 16世紀後半と8世紀後半の2時期の遺構・遺物を確認。城内跡内で初めて堀立柱建物(方1間)が検出された。建物廃棄後に穴をあけた土師器皿を柱穴に埋納していることがわかった。中世以降の下層に奈良・平安時代の竪穴建物が3棟検出された。 近くの須恵器窯である池の平窯があることから窯工人の作業小屋であった可能性がある。 

  ・二ノ丸 平坦面の発掘調査は行っていない。

  ・無常 発掘では、鐘撞堂直下の空堀から斜面の岩盤を掘り込んで作られた階段状遺構が発見された。

3回に分けてクイズラリーの答えの説明を書きましたが、文章の不統一、文字配列等に不備があり読みづらいものになってしまいました。すみません。間違っているところもあると思います。是非教えてください。

     

本保澄雄 090-7086−5074


  • 未分類