Tonami Blogへ
ID パスワード
このblogのトップへ戻る

増山城解説ボランティア 曲輪の会

増山城解説ボランティア養成講座の修了生を中心としたお城好きのグループです。国指定史跡「増山城跡」のガイド活動をはじめ、増山城跡でのイベントや定期的に各地のお城を訪れる「城攻め」などを行って楽しんでいます。文化庁の市民から文化力プロジェクトに参加しています。
メール kuruwano@gmail.com
ホームページURL http://blog.city.tonami.toyama.jp/group/kuruwa/
設立日 2010(平成22)年10月
会員数 38名
増山城戦国Tシャツ http://blog.city.tonami.toyama.jp/group/kuruwa/detail.jsp?id=1463
市民から文化力 http://www.bunkaryoku.bunka.go.jp/cgi-bin/shimin/detail.php?id=127
主な活動 2015.10.25 全国山城サミットin米原に出陣
1  | 2  | 3  | 4  | 5  | 6  | 7  | 8
次のページ

2018年11月08日 17:28

問7. 増山城名誉城主の名前は
 答え 春風亭昇太 さん 


説明 テレビ番組「笑点」でおなじみの 春風亭昇太さんは大のお城好き。テレビ番組や各種メディアで増山城跡を取り上げていただくなど機会あるごとに増山城をPRしてくっださっています。丙申(ひのえさる=平成28年)九月弐拾六日に夏野市長から増山城名誉城主に認定されました。
 


平成21年7月 我々家臣団(曲輪の会会員)に護られ増山城へ初入城。
その後テレビや本などで増山城を何度も宣伝。
洋泉社ムック 『日本の山城100名城』で「城主になりたい山城トップ3」のトップにランク。


    
夏野砺波市長から認定書



 
昇太さんが増山城を案内。




昇太さんの本『城あるきのススメ』




戦国ポロシャツ 『増山之事 元来 嶮難之地』 は昇太さんによる。


(画像は曲輪の会ブログや砺波市のブログなどから)

               
本保澄雄
 


  • 基本情報

2018年11月06日 08:13

神水鉢 E 千光寺の心礎を蹲(つくばい)に転用したものか?

神水鉢の用途については、月時計、旗台石、塔心礎などいろいろあるが、今回は新しい説として塔心礎を転用し蹲として利用 説を書く。

  蹲(つくばい)とは日本庭園の添景物の一つで露地(茶庭)に設置される。茶室に入る前に手を清めるために置かれた背の低い手水鉢に役石おいて趣を加えたもの。手水で手を洗うとき「つくばう(しゃがむ)」ことからその名がある。
 もともと茶道の習わしで、客人が這いつくばうようにして身を低くして手を清めたのが始まりである。茶事を行うための茶室という特別な空間としても作用する。Wikipediaより 



 
(インターネット「信越北陸諸国の塔跡」より)

「二ノ丸は構造的に見て最も防御された区画であるため、主郭(本丸)と考えられる。・・・中略・・・
 現地説明板では二ノ丸推定心礎は「神水鉢」と云い、窪みには常時水が溜まっており、渇水時にも枯れることはないと解説する。旗台石とする説もある。また旗台石を塔心礎とし、二の丸は仏教施設が存立した空間であったとする説もある。・・略・・
 増山城二ノ丸推定心礎が心礎であることの確定的根拠はないが、大きさ及びその形状、さらに二重の円孔を持つことで心礎であることの可能性はかなり高いであろう。
 では、如何なる由来の心礎なのか。
まず、この山城に塔婆の建立があったとは考え難く、またあったとしても中世後期に心礎を必要とした塔などほぼありえないであろうから、この付近の寺院から搬入し、本丸庭園のなどに転用したものと考えるのが自然であろう。
であるとすれば、如何なる寺院からであろうか。
「幻の塔を求めて西東」では、根拠不明ながら、千光寺からの移転と云う。

そもそも千光寺とは・・・中略・・・

千光寺はかなりの古刹との伝承を持ち、現在千光寺に塔婆の建立があったとの情報は得ていないが、古代に塔婆の建立を見たことは十分考えられるであろう。
さらに当寺は和田川沿いにあり、同じく和田川沿いの増山城の数キロ上流に位置する。もし、千光寺から心礎が搬入されたとすれば、水運で搬入するのに好都合な位置関係にあるのも事実である。
 なお、常に水を蓄えている「神水鉢」は後世の作り話の類であろう。
旗台石であると云う説は形状から連想される後世の思い付きであろう。
あるいは実際に円孔を利用して旗台として使ったことがあったかもしれないが、そうだとしてもこの石が心礎であることの何の妨げにもならないことは自明である。
むしろ旗台のためにわざわざ大石を加工する方が不自然であろう。心礎を転用した方が合理的であろう。
二重円孔式(石の)大きさ156×120 p、
    (孔の大きさ)径28×(深)24 p
            径 7×(深)3 p   」
 注( )は本保が補記
   



 
 神水鉢について長々と書いてきました。
 ご意見などあれば是非教えてください。お待ちしています。
   
               090−7086―5074
 
                
本保澄雄


  • 基本情報

2018年11月05日 08:03

神水鉢D

氷見市にある塔心礎

チョット寄り道。
 前回佐伯哲也さんの塔心礎説について書いたが,今回はチョット寄り道をして氷見市に伝わる塔心礎石について書く。

 伝 小窪廃寺塔芯礎石

「いぼ石」と呼ばれるこの巨石は、小窪の通称「塔のすま」から運び出されたと伝えられ、現在は小久米の小久米神社境内に置かれています。8世紀初め頃、小窪に在ったという古代寺院「小窪廃寺」の塔心礎石(塔の心柱を受ける礎石)と考えられます。直径160cmでほぼ円形に整形されており、平らな上面に直径約82pの柱穴がうがたれています。柱穴の大きさは北陸では最大級のもので、この塔心礎を用いた塔の高さは一般には30m前後と推定されます。
    


  氷見市 生涯学習担当(インターネットより)

            
本保澄雄


  • 基本情報

2018年10月29日 07:22

神水鉢➂
前回、前々回と二ノ丸の神水鉢について書いたが、またまた神水鉢

神水鉢用途

 神水鉢の用途についてはいろいろの説がある。
まず、前回の投稿の安カ川恵子先生の古文書資料から見てみよう。
  ➀旗台石
  ➁用途不明
  B手水鉢のごとき石
  C神水鉢(月時計)
などの用途を記しているが、内容的には「旗台石」多い。

次に『増山城跡リーフレット」』を見てみよう。
同リーフレットでは神水鉢の用途について「用途は不明で手水鉢、旗台石、塔心礎など諸説がある」として3説を並べている。
  

では、地元研究者はどう見ているのだろうか

・旗台(旗竿)石説 老松邦雄さん
・塔心礎説    佐伯哲也さん

まずは老松さん旗台(旗竿)石説

老松邦雄さんは「増山城最後の城主中川宗半(光重)と蕭」において
 「増山城の主郭通称二の丸には、中央を丸く抉った「神水鉢」と呼ばれる石が置かれている。最近の城郭研究家高岡徹氏の研究によると、肥前名護屋城周辺にこれによく似た石がいくつも残されており、現地では旗竿石と呼ばれているように、おそらく軍旗や馬印を立てるために使われた台石であろうとされている。前田氏の家屋陣屋跡にも二基残されており、増山城の神水鉢は名護屋での習わしを宗半が持ち込んだものと考えられている。宗半不在の増山城を守った蕭に対し、名護屋で流行した旗立ての行事を宗半が披露した、としたら推測が過ぎるであろうか」



唐津城 旗竿石 (インターネットから)

  佐伯哲也さんの塔心礎説は次回です。

     
本保澄雄


  • 基本情報

2018年10月15日 09:28

 クイズラリー問題と答え(4


問6.二の丸にある穴のあいた石の名は
答え 神水鉢(しんすいばち)

説明⓵

 昭和43年に、地元増山の土田豊作によって記された『古城増山城史』には、増山城主神保氏がこの水鉢うつる月影で時刻を知ったとされ、干天時でも水は決してかれることがないといわれていると書いてある。案内看板にある「神水鉢」はこの記述に拠っているようである。昭和44年にはNHKの大河ドラマ「天と地」でこの地が全国的にクロ−ズアップされた頃であり、この名称はこのころ創作されたものらしい。
『古城増山城史』以前のものには、「旗台石」「手水鉢」などの名称はあるが、「神水鉢」なる名称は見られない。
 天保11年の「杉野家絵図」にも二ノ丸の北東あたりに「旗台石」と記してある。
 また、江戸時代の地誌類で最も早い時期に書かれたと思われる『越中旧事記』には、「旗台石」として大きさが二尺ほどの、中がくぼんでいる石がある。中のくぼみは水一升はいるほどであり、しかもその水は、石の中から湧き出て四季を通して絶えることがないと記す。同名の書であるが「越中資料叢書」本には「手水鉢のごときなる石」で「水一升ばかり常にたたへり」とある。『越の下草』や『越登賀三州志』『越中志徴』などにも、地元の人は「旗台石」と言い伝えているとしている。 『増山城跡総合調査報告書』より



神水鉢案内看板


 
神水鉢と石標



水をたたえた神水鉢


  以下次回
 

本保澄雄


  • 基本情報