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増山城解説ボランティア 曲輪の会

増山城解説ボランティア養成講座の修了生を中心としたお城好きのグループです。国指定史跡「増山城跡」のガイド活動をはじめ、増山城跡でのイベントや定期的に各地のお城を訪れる「城攻め」などを行って楽しんでいます。文化庁の市民から文化力プロジェクトに参加しています。
メール kuruwano@gmail.com
ホームページURL http://blog.city.tonami.toyama.jp/group/kuruwa/
設立日 2010(平成22)年10月
会員数 38名
増山城戦国Tシャツ http://blog.city.tonami.toyama.jp/group/kuruwa/detail.jsp?id=1463
市民から文化力 http://www.bunkaryoku.bunka.go.jp/cgi-bin/shimin/detail.php?id=127
主な活動 2015.10.25 全国山城サミットin米原に出陣
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2017年04月12日 09:02




現在高岡市立博物館では「新資料展」として近年新たに収蔵された博物館資料60点余りが展示されています。その中で特に注目したいのは「加賀藩試鋳銭」です。

展示されているのは三百文と七百文の青銅貨で、いずれも増山城跡で鋳造された可能性があります。興味津々。曲輪の会々員さん必見ですね。

・高岡市立博物館の説明書

一説に高岡の金森家が鋳造したともいわれているよ!

加賀藩試鋳銭

幕末に加賀藩が鋳造した三百文と七百文の試(私)鋳銭(五百文もあるよ)。
慶応元年(1865)11月加賀藩は領内に鋳貨が欠乏したため、青銅で天保通宝(等百銭)を……私鋳し藩内である加越能(富山・石川県)にのみ通用……



・以下➀➁はいずれも安カ川恵子先生(砺波郷土資料館学芸員・砺波市増山在住)の「増山城跡講座」レジメからご紹介します。

➀『石川県史』に次の記事がある。
 「因みに加賀藩私鋳の銭貨は、越中増山鉱山に於いて造ったといふ加越能加越能三百通用、加越能五百通用及び加越能七百通用の文字のある青銅貨で、その形状は天保通宝に倣ってある。・・・…」
 越中増山鉱山というのは、明治二年に設けられた「砺波郡増山撫育生産所」を指すものと考えられる。
 (本保注:確かに材質、形状、文字はその通りに見えました)

➁以下に、土田古香編著「増山年代史」にある話を告げる
 「幕末頃、財政難に苦しんだ加賀藩は領内にかぎり通用する銭貨を私鋳することを決定し、その場所を増山城跡に選定し……」


安カ川先生によると鋳造に関わったのは「高岡から雇い入れた助手の職工」との見解が示されており、金森家がそれに当たる可能性も考えられます。

 博物館の説明と安カ川先生の説明をあわせて考えると、展示品は増山城跡で鋳造された銅貨ではないかと思った次第です。

高岡市立博物館「新資料展」
開催期間    〜5月7日(日)まで。
開館時間=午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日=月曜日(ただし月曜日が祝日の場合は翌日)
 [高岡御車山祭りが開催される5月1日(月)は特別開館します]

◆学芸員による展示説明会◆
 日時:4月15日(土)、5月6日(土)各日午後2時〜2時30分
 会場:新館企画展示室/受講料無料(事前申し込み不要)

曲輪の会 本保澄雄



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本保会員の素晴らしい記事に感服しました。
合わせて先日高岡市立博物館にてその資料を確認してきました。この資料はこれまであまり知られていなかったものであり、早速安カ川学芸員にも伝えると大変驚いておりました。今後、この資料をもとに研究の進展があるかもしれません。

さて、増山城跡総合調査報告書の安カ川報告によると、増山城跡内で銭貨の鋳造を行なっていたのは「栗木平等(くりのきだいら)」と書かれています。長尾山や御所山の南側に位置する場所です。鋳物を行なっていた場所では鋳型の破片や残滓(金属のクズ)が残っている可能性があります。いつかの機会に訪れて見たいですね。

曲輪の会顧問 野原大輔


  • 歴史

2014年08月25日 13:06

今年の3月、長野県飯綱町の「いいづな歴史ふれあい館」と佐久間安政(金沢城の初代城主、佐久間盛政の弟、盛次)のご子孫にあたる方から「佐々成政」の婿養子だった「佐久間源六勝之」のことについて教えてくださいとのメールが曲輪の会にありました。
詳しいことについては「増山城跡総合調査報告書」の筆者、高岡徹氏に砺波市教育委員会から繋いでいただきました。いただいたメールによって繋がったご縁です。

「史跡増山城跡保存管理計画」砺波市教育委員会によれば、
天正6年に謙信が急死すると、越中の国人衆が織田方に走る動きを見せた。天正9年に孤立した増山城の上杉勢は城に火を放って木舟城に移っている。しかし、木舟城は北陸に軍事展開する織田方の手に落ち、増山城も攻略された。織田方は増山城を拠点にして一揆方の拠点である瑞泉寺を攻めたとみられる。織田の武将佐々成政は天正11年頃に越中を平定し、増山城は富山城を本拠とした成政の有力支城となった。この頃、城を守っていたのは、成政の養子、佐々勝之や直属の馬廻衆であったという。とされている。
では、佐々源六勝之とはどんな人物なのだろか?
ちなみに佐々源六勝之=佐久間勝之は同一人物ですよ!氏族は佐久間→柴田→佐々→佐久間と変わっています。
永禄11年、織田氏の家臣・佐久間盛次の第四男として生まれる。はじめは叔父の柴田勝家の養子となったが、後に佐々成政の娘を娶り、婿養子となった。後に北条氏、豊臣家、蒲生氏郷、徳川家へと主君を変えている。佐久間姓に復したのは、秀吉に仕えてから。
佐久間兄弟は蒲生氏郷に付属し、奥州討伐で戦績をあげ、当時、蔵入地にしたばかりの北信濃(兄、安政に槙島(現在の長野市信州新町)、弟の勝之に長沼城を与えました。秀吉死後は徳川家に仕えました。関ヶ原、大阪夏の陣、冬の陣でも戦績をあげ、再び、北信濃の地を拝領することになりました。
繋がりの中で、新たに解ったこと!
佐久間勝之にとって増山城は人生で最初の守城だったこと。佐久間勝之という共通点で250年余りの年月を超えてご縁をいただきました。
今年度中に、長沼住民の皆様が増山城を訪れていただくことになるかもしれません。曲輪の会皆で温かいもてなしをしたいものです。

飯綱広報紙「いいづな通信」6月号から「マンガ戦国佐久間兄弟」の連載が始まりました。
月1回発行です。増山城は9月号に登場の予定だそうです。HPで発行されたら、皆さんにもお知らせしたいと思います。
  
             曲輪の会 柄崎 文枝


  • 歴史

2014年03月29日 13:09

先日、増山城の最後の伝承者といわれる、Tさん宅へお邪魔させていただいた。なかなか日程が合わず、やっと、やっとの念願の訪問となりました!増山城の魅力を感じるには、曲輪を巡るだけでなく、外街道を、内街道を含め、自分だったらどうこの城を攻めるかという観点で想像力を膨らませることが新しい発見になると思う。冬の間に地元の方に案内してもらい、自分の足で孫次山砦麓から雀坂を抜け、自分の足で街道を歩いてみた、それによって外街道から内街道へ続く道が複数あることが判った。Tさんのお話では、明治以降新しい道がついたことにより、失われた道もけっこうあるとのこと。「上杉謙信による侵攻はどこから行われたのか?」答えは「判らない!」とのこと、富山、婦中方面から、陣取り場を経ての侵攻、その他に放生津から和田川を使っての侵攻も考えられるのではないかということ。陸路だけでなく、海上、河川を使っての侵攻の可能性を考えてもよいのではないかと思った。実際、下山田、東保方面にも密路伝承もある。伝承については「拡大解釈が多いが事実と照らし合わせながら検証していくことが大切」と佐伯先生がいっておれた、想像力を働かせ、様々な可能性を検証していくことが真実に近づくことであると思う。Tさんは、「七曲がり側の橋はダムができる前、10M以上も川が下がっていた」といわれる。七曲がり側の切岸を想像すると、敵兵にとってはものすごい威圧感があったと思う。そのような事実も是非、ガイドに組み込んでほしいとのことであった。語るだけのガイドではなく、感じてもらえるガイドを改めて目指す必要があると感じた。伝承を引き継ぐということは、「自分の故郷に価値を見つけること」「無欲でなければいけないこと」様々のことを教えて頂いた訪問となりました。

         曲輪の会事務局 柄崎 文枝


  • 歴史

2012年02月15日 10:45

日本の家紋は、縄文・弥生土器の文様にその原型を見ることができるようですが、正式には平安時代中期に貴族たちが牛車や装飾品に、目印用として自分のマークを入れたことが発祥とされています。
後に武将たちが、戦場で敵味方を区別するための印として貴族を真似た旗印をつくり、この習慣が戦国時代に全国へと広がっていきました
このように、旗・幕・盾・武具に用いていたものが衣服にも使われるようになります。武家が家紋を礼服につけるようになったのは鎌倉時代からで、当時まだ一般化されてなかったものが南北朝時代になって直垂(ひたたれ:武家社会で用いられた男性用衣服)につけるようになり、これが礼服の始まりになったといわれています。
家紋は、徳川時代には権威の象徴として、元禄時代には町民にも許されるようになり、明治以降になると苗字とともに開放され、代々受け継がれることで家の紋章としての【家紋】が定着していったようです。

曲輪の会 事務局


  • 歴史

2012年02月01日 12:05

 天正十二年(1584)十一月末、富山城主の佐々成政が家臣従者100人ばかりを引き連れ厳冬期の北アルプスを越えるという、前人未到の「さらさら越え」を決行したことにについて、日付や人数等については少しずつのずれがあるが、いずれも大同小異で、天正十二年冬期であることは江戸期に著された数多くの書物によって広く知られている。
 成政はなぜこのような無謀をあえて行ったのか?
信長の忠臣であった成政は、織田家を乗っ取るような秀吉をかねてより快く思っておらず許せなかった。そこで成政は同じく秀吉と敵対していた家康と結び対抗するが、主君と仰いでいた信雄が、突如秀吉と和睦してしまい、これを知った家康も秀吉と敵対する理由が無くなり、和睦を結んでしまう。
 だが成政は「織田家再興」を諦め切れず、家康にもう一度説得しようと思った。ところが家康の居城・浜松へ出る為のルートは、越後は上杉景勝、加賀は前田利家という秀吉方が支配しており、また南の美濃は秀吉の領地ということで、家康に会うには厳冬の雪深い立山連峰を越えて行くルートしか考えられなかった。
 結果として、決死の覚悟で敢行した立山越えだったが、家康の考えを変えることは出来ず全くの徒労に終わってしまう。
 しかしこのことは、一戦国武将の戦国史としてより、日本登山史上初の真冬の北アルプス越えとしての方に大きな意味を持つという。
 だからこそ今でも、往時の装具や大量の食糧等を考えると、厳寒期の「さらさら越え」に疑問視する人が出てくるのかもしれない。
参考:遠藤 和子著 「佐々成政〈悲運の知将〉の実像」

曲輪の会 事務局



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