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増山城解説ボランティア 曲輪の会

増山城解説ボランティア養成講座の修了生を中心としたお城好きのグループです。国指定史跡「増山城跡」のガイド活動をはじめ、増山城跡でのイベントや定期的に各地のお城を訪れる「城攻め」などを行って楽しんでいます。文化庁の市民から文化力プロジェクトに参加しています。
メール kuruwano@gmail.com
ホームページURL http://blog.city.tonami.toyama.jp/group/kuruwa/
設立日 2010(平成22)年10月
会員数 38名
増山城戦国Tシャツ http://blog.city.tonami.toyama.jp/group/kuruwa/detail.jsp?id=1463
市民から文化力 http://www.bunkaryoku.bunka.go.jp/cgi-bin/shimin/detail.php?id=127
主な活動 2015.10.25 全国山城サミットin米原に出陣
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2018年11月01日 10:01


神水鉢C

用途 前回は老松邦雄さんの旗台(旗竿)石 説について書いたが、今回は佐伯哲也さんの塔心礎説について書く。

佐伯哲也さん 塔心礎説

佐賀県立博物館の所蔵する肥前名護屋城屏風には各陣屋の風景を描いているが、同図には各陣屋の門前には1本の旗もたっていなければ旗を立てる石も描いてない。
 大坂市立博物館の所蔵する関ヶ原合戦屏風図は、合戦に近い時期に描かれたと推定されるが、小西・島津・石田の各陣屋が描かれているが旗竿は周囲に設けられた逆茂木に括り付けられている。
神水鉢が旗竿石の可能性は少ない。
 守護・守護代が数百年使用した拠点クラスの城郭には、宗教空間をにおわせる地名が多く残っている。守護・守護代の拠点城郭にはごく一般的に宗教建造物が建っていたことは不思議ではない。
越前一乗谷の朝倉氏の城には宗教施設が建っていた。能登畠山氏の城にも安寧寺屋敷という寺屋敷があった。魚津松倉城にはシュゴジンドウ(?)というところも残っている。
 増山城主郭にも宗教建造物が建っていても何ら不思議ではない。実際の大きさのものではなく小さなもの。ここは宗教空間ですということをわからせるためだけのようなものが建っていたと考えるのが一番素直な考え。

 石の穴に手を入れると深さ24センチ、ちょっとくぼんだ所に5センチの深がある。そこは舎利孔(しゃりこう)と言っておしゃかさんの骨を入れるところである。こういうものを持っているのは古代の塔の礎石である。ここに三重塔、五重塔がたっていた。この石の下に重量物を乗せても沈まないように敷石が見つかっている。
このように見ていくと月時計でも旗台石でもない。ここは宗教的な建物が建っていたと考えるのが自然である。 ということで塔心礎説。

但し佐伯哲也さんは
 観光客には、月時計、旗台石、塔心礎の3つの説を説明し「さてどれでしょう」と言って考えてもらう方が逆襲も受けないし、ロマンがあって面白いのではないか。ともお話されていました。


参考資料 佐伯哲也さん
 『越中中世城郭図面集V』
 講座「増山城の縄張りを読み解く」2013.4.13

 心礎 とは
  ・塔の心柱の礎石。中心に柱を受ける座や孔があるものが多く、奈良時代以前の物では舎利(しゃり)を納めるものもある。デジタル大辞泉
 
・礎石の下にはこぶし大の栗石が詰められる場合が多い ブリタニカ国際大辞典 

 

本保澄雄


  • 歴史

2018年10月20日 21:13

神水鉢について 続き

前回《神水鉢》について記したが、それでは古文書では神水鉢についてどのように記しているのだろうか
 郷土資料館安カ川恵子先生の講座資料から拝借。



平成25年7月 講座「増山城にかかわる伝承」 より

1年中水が枯れないということについて

上記安カ川先生の資料からの引用であるが「・・・俗に此水石中より湧出て四季に絶へずと云余里人に問ふに甚非なり此石吸ほせは重ねて雨降時まで一滴もなししかし至て堅き石にて極暑にも水干ることなしと云」
『越中旧時記』(越中郷土資料館叢書)富山郷土研究会編
 句読点もなく、濁音もなく非常に読みにくい文だが、大体の訳は「石の中から水が湧き出て四季絶えることがないと言われている。自分が里人に聞いたところ、そんな馬鹿なことはない。この石が水を吸い込んでしまったら今度雨が降るまで一滴の水もない。しかしこの石はいたって硬い石なので極めて暑い時でも水が枯れることがないと言った」(意味は本保が勝手にしたので違っているかもしれません。〉

また、佐伯哲也さんは「この石は凝灰岩で透水性がある。スポンジが水を吸うようにして周りの土から水を吸い上げて大体2日間で満水になる。こういうことで夏でも水が溜まっているという伝承が残っている。という説。 
2013.4.13 増山城現地研修から 

(本当に2日間ほどで水がたまるのか一度実験してみたいですね。〉

 増山城リーフレット、大人用、子供用どちらにも神水鉢は書いてはあるがどちらにも1年中水をたたえているとか、1年中水が枯れないというようなことは書いてない。ガイドとしてはこういう伝説があると書いてほしいところだが・・・。

              続く
                 
本保澄雄


  • 歴史

2018年10月11日 08:05

クイズラリー問題と答え(説明)

問5.増山城は平城、山城 どちらのタイプ?
答え 山城

説明

 戦国時代に数多く築かれた城は江戸時代の軍学のなかで研究が進められ二つの分類法が生まれた。
 一つは立地による分類法である。

城の立地による分類。
一般的には「山城」「平山城」「平城」の三種類に分類される。中世から戦国初期にかけては人里離れた山に城を築いたが、戦国時代になると城は領国経営の拠点となったため、次第に人員・物資の運送に便利な平地に移っていった。


山城とは 主に高い山の尾根を利用して築かれる城。地形を利用して各施設が造られるため高度な築城技術が無くても堅固な城とすることができた。大名の拠点としての役割はやがて平山城へ移るが、軍事拠点として戦国時代を通じて利用された。

 平山城
とは 交通の便の良い丘陵地に建てられた城。丘陵の上に曲輪を開いて天守や城壁を造り、丘陵自体を水堀で囲むことが多い。城主の邸宅や家臣団の屋敷なども城壁の内側に築かれ、多くの兵を収容する軍事拠点として機能した。

 平城とは 周囲に城下町を発展させやすい平地に築かれた城。平山城と同様城主や家臣団の屋敷を城壁の内側に配置し大軍の駐留も可能となった。

山城・平山城・平城の区分のポイントは標高ではなく比高。比高100b・比高30bあたりが一つの基準とか。例えば
  犬山城 は標高80b 比高40bで平山城
 大坂城 は標高31b 比高30bで平城
 岡城  は標高325b比高100bで山城
 松山城 は標高132b比高90bで平山城
  松本城 は標高592bという高地にあるが盆地にあり比高がほとんどないため平城

 増山城は 標高124b 比高75bだが山城に分類されている。

北陸3県の名城はどのタイプ?
  日本100名城
    高岡城  平城
    七尾城  山城
    金沢城  平山城
    丸岡城  平山城
   一乗谷城  山城(麓に居館)

  続・日本100名城
    富山城 平城
    増山城 山城
    鳥越城  山城
    福井城  平城
    越前大野城 平山城
    佐柿国吉城 山城
    玄蕃尾城  山城


  
 増山城

 2018.10.13

本保澄雄


  • 歴史

2014年08月25日 13:06

今年の3月、長野県飯綱町の「いいづな歴史ふれあい館」と佐久間安政(金沢城の初代城主、佐久間盛政の弟、盛次)のご子孫にあたる方から「佐々成政」の婿養子だった「佐久間源六勝之」のことについて教えてくださいとのメールが曲輪の会にありました。
詳しいことについては「増山城跡総合調査報告書」の筆者、高岡徹氏に砺波市教育委員会から繋いでいただきました。いただいたメールによって繋がったご縁です。

「史跡増山城跡保存管理計画」砺波市教育委員会によれば、
天正6年に謙信が急死すると、越中の国人衆が織田方に走る動きを見せた。天正9年に孤立した増山城の上杉勢は城に火を放って木舟城に移っている。しかし、木舟城は北陸に軍事展開する織田方の手に落ち、増山城も攻略された。織田方は増山城を拠点にして一揆方の拠点である瑞泉寺を攻めたとみられる。織田の武将佐々成政は天正11年頃に越中を平定し、増山城は富山城を本拠とした成政の有力支城となった。この頃、城を守っていたのは、成政の養子、佐々勝之や直属の馬廻衆であったという。とされている。
では、佐々源六勝之とはどんな人物なのだろか?
ちなみに佐々源六勝之=佐久間勝之は同一人物ですよ!氏族は佐久間→柴田→佐々→佐久間と変わっています。
永禄11年、織田氏の家臣・佐久間盛次の第四男として生まれる。はじめは叔父の柴田勝家の養子となったが、後に佐々成政の娘を娶り、婿養子となった。後に北条氏、豊臣家、蒲生氏郷、徳川家へと主君を変えている。佐久間姓に復したのは、秀吉に仕えてから。
佐久間兄弟は蒲生氏郷に付属し、奥州討伐で戦績をあげ、当時、蔵入地にしたばかりの北信濃(兄、安政に槙島(現在の長野市信州新町)、弟の勝之に長沼城を与えました。秀吉死後は徳川家に仕えました。関ヶ原、大阪夏の陣、冬の陣でも戦績をあげ、再び、北信濃の地を拝領することになりました。
繋がりの中で、新たに解ったこと!
佐久間勝之にとって増山城は人生で最初の守城だったこと。佐久間勝之という共通点で250年余りの年月を超えてご縁をいただきました。
今年度中に、長沼住民の皆様が増山城を訪れていただくことになるかもしれません。曲輪の会皆で温かいもてなしをしたいものです。

飯綱広報紙「いいづな通信」6月号から「マンガ戦国佐久間兄弟」の連載が始まりました。
月1回発行です。増山城は9月号に登場の予定だそうです。HPで発行されたら、皆さんにもお知らせしたいと思います。
  
             曲輪の会 柄崎 文枝


  • 歴史

2014年03月29日 13:09

先日、増山城の最後の伝承者といわれる、Tさん宅へお邪魔させていただいた。なかなか日程が合わず、やっと、やっとの念願の訪問となりました!増山城の魅力を感じるには、曲輪を巡るだけでなく、外街道を、内街道を含め、自分だったらどうこの城を攻めるかという観点で想像力を膨らませることが新しい発見になると思う。冬の間に地元の方に案内してもらい、自分の足で孫次山砦麓から雀坂を抜け、自分の足で街道を歩いてみた、それによって外街道から内街道へ続く道が複数あることが判った。Tさんのお話では、明治以降新しい道がついたことにより、失われた道もけっこうあるとのこと。「上杉謙信による侵攻はどこから行われたのか?」答えは「判らない!」とのこと、富山、婦中方面から、陣取り場を経ての侵攻、その他に放生津から和田川を使っての侵攻も考えられるのではないかということ。陸路だけでなく、海上、河川を使っての侵攻の可能性を考えてもよいのではないかと思った。実際、下山田、東保方面にも密路伝承もある。伝承については「拡大解釈が多いが事実と照らし合わせながら検証していくことが大切」と佐伯先生がいっておれた、想像力を働かせ、様々な可能性を検証していくことが真実に近づくことであると思う。Tさんは、「七曲がり側の橋はダムができる前、10M以上も川が下がっていた」といわれる。七曲がり側の切岸を想像すると、敵兵にとってはものすごい威圧感があったと思う。そのような事実も是非、ガイドに組み込んでほしいとのことであった。語るだけのガイドではなく、感じてもらえるガイドを改めて目指す必要があると感じた。伝承を引き継ぐということは、「自分の故郷に価値を見つけること」「無欲でなければいけないこと」様々のことを教えて頂いた訪問となりました。

         曲輪の会事務局 柄崎 文枝


  • 歴史