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増山城解説ボランティア 曲輪の会

増山城解説ボランティア養成講座の修了生を中心としたお城好きのグループです。国指定史跡「増山城跡」のガイド活動をはじめ、増山城跡でのイベントや定期的に各地のお城を訪れる「城攻め」などを行って楽しんでいます。文化庁の市民から文化力プロジェクトに参加しています。
メール kuruwano@gmail.com
ホームページURL http://blog.city.tonami.toyama.jp/group/kuruwa/
設立日 2010(平成22)年10月
会員数 38名
増山城戦国Tシャツ http://blog.city.tonami.toyama.jp/group/kuruwa/detail.jsp?id=1463
市民から文化力 http://www.bunkaryoku.bunka.go.jp/cgi-bin/shimin/detail.php?id=127
主な活動 2015.10.25 全国山城サミットin米原に出陣
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2017年12月15日 20:00

一昨夜から断続的に降り続いた雪も今日はやみ、久しぶりの青空。明日からはまた雪の予報。
雪の増山城跡散策は今日しかないと早速登城。


              増山陣屋は閉館中


              冠木門


         雪の上に女性と思われる靴跡。しかも1人。


              二ノ丸


             一ノ丸から城下町を見る


               なにやら小動物の足跡
 
本保澄雄


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2017年12月05日 11:54

前回(11/28)中川光重の増山城城主前後の経緯について老松邦雄さんの説を中心に書いた。しかし異説もある。以下老松さんを含め3人の説。

老松邦雄さん 増山城城主→修城過怠→津向→秀吉お伽衆→増山城城主へ復帰
池田公一さん 増山城城主→修城過怠→津向→秀吉お伽衆
童門冬二さん 七尾城城主(3人)→修城過怠→津向→秀吉お伽衆→増山城城主

老松さん池田さんは光重が増山城城主時代に修城を怠ったとしているのに対し、童門さんは七尾城城主時代に修城を怠った。増山城城主となったのは秀吉お伽衆の後からの話としている。

 もっとも、老松さんは文中では「…と考えたほうが無理がない」「年代にずれがあるのではないか」「…かもしれない」という表現を使用しておられ断定はしておられない。
 



中川光重について
 性格:大雑把。悩まない。合戦になると自分でも不思議に思うくらい力を発起する。秀吉のお伽衆をばかばかしく思う。
 子孫:南砺市福野町に在住。前田利家からの書状や系図など残されている。
 宗半塚:砺波市庄金剛地区の恩光寺旧地の近くにある。
 恩光寺:福野町。1653年に砺波市庄金剛地区から移転。神保氏菩提寺。中川宗半が葬られた寺。
 金沢市野田山:中川家墓地には光重と蕭の墓碑が石廟の中に静かに眠っている。
 神水鉢:肥前名護屋城の周辺によく似た石がいくつも残されており、現地では旗竿石とよばれている。軍旗や馬印を立てるための台石とされている。名護屋での習わしを光重が持ち込んだのではないか。
 宗半肩衝(かたつき=ちゃいれ)利休使用の肩衝を前田利長がもらい受けそれをさらに宗半に下した。しかし宗半は肩衝の価値がわからず粗略な扱いをして利長の不興を買った。恐縮した宗半は肩衝を利長に返した。この肩衝は「宗半肩衝」と呼ばれ現在金沢市中村記念館に保存されている。

 注意)私の話は若いころ読んだ小説などから得たものばかりであくまで「物語の世界」です。あまり信用しないでください。「あのダラ」と思ってください。

  参考図書  前回と同じ

 
本保澄雄


  • 未分類

2017年11月28日 10:41

 去る9月28日七尾市津向町を通った。「観光ボランティア北陸大会in七尾」で現地研修の際バスで通過したのである。中川光重が蟄居したあの津向町である。
 10月27日ブログに中川光重のにせ手紙事件を載せたがここではその追加分として増山城主前後の中川光重のことを書いてみた。

1562年((永禄5) 光重生誕
   〜
1584年(天正12) 前田利長に砺波・射水・婦負の3郡が与えられた。このころ増山城主に            なったと推定される。
1586年(天正14) 中田で上杉景勝をもてなす。
1594年4月(文禄4.4)〜1595年6月(文禄5.6) この時期に七尾城(一説には金沢城)修城の課役を怠り利長から七尾村津向に蟄居を命じられた可能性大。
その後いくばくもなく秀吉に仕える(3千石)
1596年8月(慶長元) 浪人中。この時期にはまだ前田家への復帰はなかった可能性。
1599年3月(慶長4) 利長の子の養育に努めており、慶長の早い時期に前田家へ復帰したと思われる。(2万3千石)
1603年(慶長8) 蕭姫 没(41歳)
1611年(慶長16) 隠居 隠居後宗半または巨海斎と号した。(1590年頃から宗半と称して            いたという説もある)
1614年(慶長19)没(53歳) 増山城において没したと考えられる。(以下次回)


 (年号については諸説あり。ここでは主として老松邦雄さんの『増山城最後の城主中川宗半(光重)と蕭』に従った。   


参考図書 老松邦雄 『増山城最後の城主中川宗半(光重)と蕭』 インターネット
     童門冬二 『加賀前田家の処世術』 北国新聞社
     池田公一 『名君前田利家』  新人物往来社
     山本和代子 『古城万華鏡』 桂書房

                  
本保澄雄


  • 未分類

2017年11月08日 19:20

10月23日に県内に最接近した台風21号は、増山城跡にも爪痕を残したが、さてその復旧は?
 本日(11月8日)、前回(10月24日)掲載した被害場所を見て歩き、あわせて初冬の増山城を楽しんだ。


F郭 倒木は整理されすっきりした道

 

除去されカットされた倒木

 馬之背ゴの倒木、又兵衛清水付近の小さな土砂崩れは増山城探索に直接の影響はないためにそのまま。


馬洗い池⇔神保氏入水の井戸 間にあった倒木もきれいに片づけられていた。


初冬(11月7日立冬)の増山城
2件
 



砺波市教育委員会 生涯学習・スポーツ課の素早い対応に感謝。
山城はこれからが絶好の探索時期。一人でも多くの登城者を期待。
                  
本保澄雄


  • 未分類

2017年11月07日 16:02

11月4日 「曲輪の会」で  「じっくり古文書講座ー永禄三年の長尾景虎書状を読むー」 が行われました。 14、5名の参加がありました。

講師は 「曲輪の会」会員の川幡拓未 さん
教材は  永禄三年 四月二十八日 佐竹(義昭)宛て 長尾景虎書状
 あの有名な「…増山之事、元来嶮難之地、…」の書状(一部略)でした。

 講座内容は 古文書そのものを解読するものではなく、翻字、訓点付き文書の「読み下し文」の解説及びこの書状が書かれたいきさつや当時の越中の越中の状況などについての詳しい説明でした。

 レジメ資料として
 〇四月二十八日付長尾景虎書状(原文)翻字訓点付き
 〇同上(読み下し文)
 〇語句解説、助詞、下から返ってって読む字
 〇永禄三年の戦いの後の経過
など、親切に解説されており、大変わかり易いものでした。

また当時の様子を詳しく解説され大変参考になりました。これだけの資料作成大変だったと思います。川幡先生に本当に有難うございました。
 次回の講座を期待しています。


現在、富山市郷土博物館で「特別展 謙信越中出馬」が開催されています。(11月12日まで)
 同展には上記書状は展示してないようですが第3次増山城攻(天正4年)に際し 栗林次郎左衛門尉殿宛ての書状が展示してあります。

本保澄雄


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