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2017年12月05日  11:54

七尾市津向(つむぎ)町 −中川光重蟄居地ー (2)

前回(11/28)中川光重の増山城城主前後の経緯について老松邦雄さんの説を中心に書いた。しかし異説もある。以下老松さんを含め3人の説。

老松邦雄さん 増山城城主→修城過怠→津向→秀吉お伽衆→増山城城主へ復帰
池田公一さん 増山城城主→修城過怠→津向→秀吉お伽衆
童門冬二さん 七尾城城主(3人)→修城過怠→津向→秀吉お伽衆→増山城城主

老松さん池田さんは光重が増山城城主時代に修城を怠ったとしているのに対し、童門さんは七尾城城主時代に修城を怠った。増山城城主となったのは秀吉お伽衆の後からの話としている。

 もっとも、老松さんは文中では「…と考えたほうが無理がない」「年代にずれがあるのではないか」「…かもしれない」という表現を使用しておられ断定はしておられない。
 



中川光重について
 性格:大雑把。悩まない。合戦になると自分でも不思議に思うくらい力を発起する。秀吉のお伽衆をばかばかしく思う。
 子孫:南砺市福野町に在住。前田利家からの書状や系図など残されている。
 宗半塚:砺波市庄金剛地区の恩光寺旧地の近くにある。
 恩光寺:福野町。1653年に砺波市庄金剛地区から移転。神保氏菩提寺。中川宗半が葬られた寺。
 金沢市野田山:中川家墓地には光重と蕭の墓碑が石廟の中に静かに眠っている。
 神水鉢:肥前名護屋城の周辺によく似た石がいくつも残されており、現地では旗竿石とよばれている。軍旗や馬印を立てるための台石とされている。名護屋での習わしを光重が持ち込んだのではないか。
 宗半肩衝(かたつき=ちゃいれ)利休使用の肩衝を前田利長がもらい受けそれをさらに宗半に下した。しかし宗半は肩衝の価値がわからず粗略な扱いをして利長の不興を買った。恐縮した宗半は肩衝を利長に返した。この肩衝は「宗半肩衝」と呼ばれ現在金沢市中村記念館に保存されている。

 注意)私の話は若いころ読んだ小説などから得たものばかりであくまで「物語の世界」です。あまり信用しないでください。「あのダラ」と思ってください。

  参考図書  前回と同じ

 
本保澄雄


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