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ふるさと学芸員の小窓

ふるさと学芸員のブログです。砺波市の「ふるさと文化財」とは、地域の財産として親しまれ大切にされている文化的財産のことです。このブログで少しずつご紹介していきたいと思います。
メール furubun001@gmail.com
ホームページURL http://blog.city.tonami.toyama.jp/group/furusato/
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2012年10月16日 14:40

ふるさと文化財に指定されている、庄川町西野々の高台にある御上様塚。塚には『罪福皆空無所住』と彫られた石碑と、観音堂が建てられています。
 御上様塚のいわれについてはこちら。

石碑が建てられてからおよそ300年後。塚に植えられた松の木は大きく太く育ちました。
明治12年のことです。井波の瑞泉寺が火事が焼けてしまい、近くの村々ではなんとしてでも御堂を再建するとを誓い合いました。
 ある日、西野々の人々も御堂の再建のための材木をどこから切り出して瑞泉寺に寄進するかを話し合いました。その席でのこと・・・
「御上様塚の松、なんちゅう でかなったのう。 あれどうじゃ。」
「木を切って お上様のたたりはないかのう。」
「いや、井波の御坊へ行こうとしてやったがやから、本望じゃろ。」
「御坊から来てもろて、ナンマンダブツをあげたらよかろう。」
と、とうとう松を切ることにしました。

ところが松を切ってしばらくしたころ、御上様塚の近くに住んでいた老婆が突然気が振れてしまい、毎晩村中をさまよい歩き、そのうちに狂死してしまいました。
村人達はお上様のたたりだと噂をしました。そしてたたりを収めるためにはどうしたらいいかを話し合い、観音様像を建てることにしました。それで観音像を建てたのが、明治の名石工森川栄次郎です。

 観音像が完成すると、付近の人々は一層お上様を慕い、観音様をお参りしました。
ある日信心深い老人が高熱が続く病気になり、家族はなんとか病気を治そうと観音様に、朝夕おまいりししました。すると七日目の朝早くに観音様におまいりしに行くと、観音様が汗びっしょりになっていました。どうしたことだろうと思いながら家に帰ると、夕べまで高い熱を出していた老人はすっかり熱が下がって元気になっていたそうです。
 それからはさらに観音様をおまいりする人が増え、朝に夕にとお花などを供えられたそうです。


【参考図書】
「庄川町の伝説・民話選集(1) ふるさとの昔むかし」
庄川小学校PTA


  • 史跡

2012年09月12日 16:32

 石崎謙は天保十一年(1840)8月20日に現在の砺波市小島に生まれました。幼少の頃から漢籍・医学・儒学など広く学問を修めた他、学制が施行されると自宅を小学校舎として開放するなど、教育の発展にも積極的な人物でした。また富山県の分県運動にも一石を投じています。





 かつての富山県は石川県と統合されていたことで様々な不都合を被っていました。当時東京で司法省に勤務していた石崎は、分県の必然性を穏健かつ理路整然と唱えた建白書を元老院に提出しました。米沢紋三郎らが建白書を提出したのはその翌年で、それから一年を経たずして富山県の分県が成っています。当時の政府には富山県出身の顕官がいなかったにも関わらず、スピード成就と言えます。石崎は富山県分県の先駆者でもあるのです。
 東京での官を辞した石崎は前田候の招聘によって金沢藩史の編纂に携わり、晩年は郷里に戻り、子弟の教育にあたりました。
明治36年1月3日逝去。石崎の死後、彼の師三島毅による石碑が建立され、生い立ちや業績に加えて石崎の優れた学問の才を讃え死を悼む漢詩も刻まれています。
一生を通して学問と教育文化の普及に努めた石崎は、明治維新以降の日本の近代化に支えたひとりとも言えます。


  • 史跡

2012年06月15日 09:58

6月13日に薬勝寺において大般若会が行われました。午前中には薬勝寺の招請開山僧である桂岩運芳師の法要「開山忌」も行われました。開山忌の様子については別記いたします。
さて、この大般若会。先日来このブログでもお話している、親王塚と公卿塚の法要であり、旧般若の郷内の五穀豊穣と安全、幸福を祈念するものです。
大般若会の始まりについては、薬勝寺誌によると次のとおりです。

 当寺の中興陽室和尚のころ、公卿塚のあたりに怪異が出て、夜は人も通れないようになった。和尚が一基の大卒塔婆を建てて読経したところ、怪異は止んだ。それ以来親王を祭祀することをはじめ…(以下略)                  (薬勝寺誌より)

陽室和尚は薬勝寺の第十五世で、江戸時代中期の方です。この大般若会の歴史を感じます。

大般若会では薬勝寺の住職・副住職を含めて13人の僧侶が読経され、3人の虚無僧が尺八を吹いています。私は生尺八を始めて聞きました。



真ん中の席に座るのは、薬勝寺が所属する臨済宗国泰寺派の管長様です。まわりにはその末寺の僧侶の方々が。


席には木箱にびっしり入ったたくさんの経典があり、「これを全部読むのは大変だろうな…」なんて思っていたら・・・。

経典が宙を舞っています!!


お腹から出しているような大きな声で何かを唱えながら、目の前のお経をバラバラと広げていきます。
これは転読という読経の方法のひとつで、管長さんが理趣分経というお経の要の部分を読み、周りの方々が手分けして大般若経全六百巻をバラバラと捲りながら読む方法なんだそうです。住職曰く「虫干しも兼ねているのでは」とのこと。
転読を何かで読んだことはありましたが、実際にしかも突然これを目の前にすると、その迫力に衝撃を受けました。とっても荘厳です。一見の価値ありです。

かつては境内で奉納相撲も開かれ、門前には屋台が並んだそうです。賑わっていたんですね。この日は安川地域を中心とした檀家信徒の方々が30人ほど参詣にいらしていました。
来年も6月13日に行われるそうです。


  • 史跡

2012年06月12日 16:55

先日は薬勝寺に伝わる縁起から親王塚のお話をしました。今日はまた別の説をお話します。





 般若地区の辺りは、中世には「般若野荘」と呼ばれ、京都の徳大寺家の荘園が展開されていました。12世紀初頭、徳大寺家領として成立した当初は広大な領域であったと思われますが、武家勢力の展開に伴って下地中分が行われ、領家としての徳大寺家の荘園経営は次第に困難になっていきました。
 そんな折、文明六年(1474)に、領主である徳大寺実淳は荘園での勢力を回復するためにはるばる京から越中へと下向しました。しかしその回復は叶わず、さらにその孫の実通も天文三年(1534)と同十四年(1545)に下向します。そして天文十四年の下向の際に、この地の武家・荘民によって従者の公卿ともども殺されてしまいます。その実通を葬ったとみられるのが親王塚であるという説もあるのです。淳良親王の伝承は徳大寺実淳の越中下向から転化したのかもしれないといわれています。
 伴に殺害された従者は、薬勝寺から300メートルほど南にある「公卿塚(九人塚)」に葬られたとされます。

【下地中分】
中世に地頭の勢力が徐々に強大になった際、地頭が耕地の拡大や自らの支配権の拡大に努めたので荘園領主や所領近隣の武士との間で紛争を起こすことが多くなった。その解決方法のひとつとしてとられたのが「下地中分」という取り決めで、この方法によって荘園の土地自体を折半し、地頭と領主とが土地・住民をわけて完全な支配権を認め合った。


 さて、そんな親王塚の法要は明日です。

6月13日(水)
10時半〜 開山忌(薬勝寺の開山僧の法要)
13時半〜 大般若会(親王塚の法要)
場所:薬勝寺本堂(砺波市安川29)

 この機会にお参りされてみてはいかがでしょうか。





※ちなみに親王塚の上にある宝篋印塔は、南北朝期から室町初期に造立されたものと推定されています。般若野荘で殺害されたと思われる徳大寺実通と、宝篋印塔そのものは時代的にズレがありますが、墳墓については定かではありません。薬勝寺には南北朝期に造立された層塔の塔身の一部や、南北朝期までさかのぼる五輪塔の残欠があります。親王塚は、墳墓とその上に置かれた宝篋印塔を別にして考えるべきという考えもあります。


  • 史跡

2012年06月08日 17:10

砺波市安川にある薬勝寺には、砺波市指定文化財の「木造桂岩運芳倚坐像」と、ふるさと文化財の「親王塚」があります。

「木造桂岩運芳倚坐像」は、南北朝時代末〜室町時代初めの作で、薬勝寺の招請開山僧である桂岩運芳師の頂相です。桂岩運芳師は京都の建仁寺より招請されて開山となった方です。頂相といえば、禅宗の僧侶が人の師と成る時に自分の師から与えられる師の肖像画で、写実的な絵です。玉眼がはめこまれたお顔は、禅宗の修行を体現しているかのように、厳しくリアルです。

「親王塚」は薬勝寺の脇から少し丘を登ったところにある宝篋印塔です。この塚には後花園天皇の皇子淳良親王のものとする伝承があります。



 
 応仁の乱(1467〜77)によって京都を追われた淳良親王は、般若郷安川の里(現在の砺波市安川)に仮の宮殿を造って供の公卿と供に三年間わび住まいをされた。般若郷の人々は皆皇子を敬慕するようになったが、増山城城主はこれを快く思わず、文明三年(1471)のある夜に家来に命じてひそかに皇子と供の公卿を殺害した。翌朝これを薬勝寺の文坡和尚が知り、あわてて城主に伝えたところ、城主は「それは郷民の仕業に違いない」として、さもその死を悼むようなふりをして墓所を築き、般若塔(親王塚)と名づけてこの地に葬った。

 ちなみに後花園天皇には淳良親王という名前の皇子はいないそうです。この伝承はおそらく、文明六年(1474)に越中へ下向した徳大寺実淳の伝承から転化したものと考えられます。
 歴史には長い年月の間にロマンや脚色が加わる場合もあります。それも含めて思いをはせるのも歴史の楽しみ方のひとつですよね。伝承等に関しては、長くなるのでまた後日…。

 さて、そんな桂岩運芳師と親王塚の法要が行われます。
「薬勝寺大般若会」
6月13日(水)
10時半〜 桂岩運芳師の法要
13時半〜 親王塚の法要  
ご住職は「たくさんの方に、どうぞお参りください」とおっしゃっていました。 

ちなみに薬勝寺の山門前には、こんなにかわいらしい五百羅漢が…。


どのお顔もかわいらしい笑顔でした。見ていると癒されますよ。五百羅漢の法要は4月だそうです。   


  • 史跡

2012年05月22日 11:03

安川城は、和田川左岸の浅谷・塩谷両集落の南方にそびえる「城山」山上に築かれた城です。
 別名「浅野谷城」と称されましたが、別名としては鬼ヶ城という名前で知られていたようで、文献にその名前が出てきます。

 「鬼ヶ城」ってなんだか恐ろしい感じがしますね。

 『越中古城記』には、かつて「般若之郷」の荘官をつとめていた黒田太左衛門が後に横暴をふるまい、悪党を従えてこの城に立てこもったとあります。

【悪党】
鎌倉時代末期、畿内を中心に現れた新しい武士層をいう。農村経済の発達によって生まれた余剰生産物を手にした荘官や名主の中から、近隣と横の連携を保って反荘園・反幕府の実力行使を行う者が現れた。幕府は荘園領主は彼らを悪党と呼び、忌み嫌った。(『詳説 日本史研究』山川出版 より)

 安川城の歴史には、当時の荘園経営の実情も背景にあるのでしょうね。

 そんな安川城をより詳しく学びたい方へ。

「ふるさと再発見 安川城『再生』プロジェクト」
安川城の魅力に触れる3回シリーズ。





第一回
「安川城を学ぶ会」 6月5日(火)19:30〜
栴檀山農村集落センターにて
内容:砺波市教育委員会学芸員の野原大輔氏を講師に招き、安川城の歴史と構造について楽しく学びます。

第二回
「安川城草刈ボランティア」 6月23日(土)9:00〜
東別所公民館 集合
内容:皆さんの協力を得て、安川城の散策路などの草刈や雑木・竹林整備を行い、史跡の保全を図ります。

第三回
「安川城散策会」 7月8日(日)10:00〜
東別所公民館
内容:安川城を散策しながら、史跡の観察を行います。講師は、北陸中世城郭研究会の佐伯哲也氏です。
持ち物:歩きやすい服装(長袖)、帽子、タオル、お茶、おにぎり他

主催:栴檀山公民館・栴檀山高齢者学級 砺波市井栗谷6552 担当/鶴巻館長・原田主事)
0763(37)1061


  • 史跡

2012年03月22日 14:18



■佐藤翁碑・砺波市東開発

砺波市東開発の佐藤邸前には郷土が生んだ事業家、佐藤助九郎を讃えた石碑があります。石材は岩手県釜石産、題額は大谷尊由、撰文は島地黙雷、書は日下部鳴鶴と当時活躍した人々によって建碑されています。

助九郎の人物像は、生来腕力があり、(これを膂力というそうですが…)舟棹さして急流を乗り切ることが得意で、どこかの川が氾濫を起こすと舟を操って人命救助に尽力したそうです。庄川の洪水に苦しんだ地域で生まれ育った経験から、水に対する恐ろしさは身をもって知っており、同時に治水工事のノウハウが自然と培われたといいます。
時は藩政時代、加賀藩領内には大野川、手取川、庄川、常願寺川、黒部川、大聖寺川など大きな河川があり、洪水で決壊すれば被害も大きかった時代でした。
文久2年、16歳で独立し佐藤組を興しました。
初仕事は富山藩から下命された常願寺川の治水工事でした。その後、明治24年、常願寺川の大洪水に際して、これまでの工事では対処できず国に陳情し、デ・レイケ氏(オランダ人技師)を入れ大改修し堤防工事を請け負いました。
北陸各河川改修からやがて鉄道工事へと事業も拡大し、国内初の鉄道である東海道線の沼津・富士間工事を、つづいて北陸線・中越線(城端線)、中央線、山陰線敷設工事に参加し、佐藤工業という全国的にも有名な大手土木業者に成長を遂げました。
助九郎に寄せられる人望は、事業家として卓越していただけではなく報恩の心を持った人間性によるところが大きかったといわれています。富山県は真宗王国といわれますが、助九郎も人一倍信仰心が厚く、私欲を捨てて寺社の建築や各地の川に橋を架け、地域社会に報いることに徹しました。


  • 史跡

2012年01月23日 15:17



■親王塚・砺波市安川

安川に臨済宗国泰寺派の般若山薬勝寺があります。
山門を潜り右手奥、寺の南墓地には親王塚といわれる塚があります。
(寺の敷地内でもあるので見学する際は、一言断ってから行きましょう。)


この道を上ると柵で囲われた中央に宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。
宝篋印塔は、中国の呉越王、銭 弘俶(せん こうしゅく)がインドの阿育王(あしょかおう)の仏舎利塔建設にならい、8万4千の金属塔を造り宝篋印心呪経(ほうきょういんしんじゅきょう)を納めて配ったのが原型とされています。日本には平安時代中期に渡来し、鎌倉時代になって定型化しましたが、塔形の名になり、他のものを納めても宝篋印塔というようになりました。しかし、近年になって、石造宝篋印塔そのものが宋代の中国に存在したことが明らかになり、中国宝篋印塔が日本の宝篋印塔の祖形と考えられているそうです。
寺伝によると、後花園院の皇子淳良(あつなが)親王の墓とされるとなっています。他にも、先日の公卿塚でもふれましたが、般若野荘の領主であった徳大寺家実道が、現地で自家の支配地確認のため1545年越中般若野荘へ下向した際に当地の武家・荘民の違乱にあい殺害された実道の墓として伝わっています。
寺では、その忌日5月13日(現在は6月13日)には古くから大般若会が修され、霊を慰め、般若郷内の豊穣を祈るための行事とされているそうです。(写真は昨年の様子)
石の状態は角が落ちて丸みを帯び、かなりの年月が経っていますね〜。
造立は南北朝時代と考察されています。組まれた石の各部には名称があり、下から二つの塔身、笠、相輪があり、全高123cmあります。



一口に墓といってもいろんな種類があることに気づかされます。
古墳、宝篋印塔、五輪塔、板碑と時代によって変化がみられ、又、その背景には仏教の影響も大きいことがわかります。今日私たちが目にする墓石が造られたのは江戸時代からだそうです。まぁ、かたちはどうであれ供養する気持ちが大事でしょうね。


  • 史跡

2012年01月19日 17:45



■公卿塚(九人塚)・砺波市安川

安川の薬勝寺から南(三谷・庄川方面)へ300メートル行ったところ、右手にこの公卿塚があります。柵みたいなものはないけど墳丘になっているのですぐにわかります。
般若野荘の領主であった徳大寺家実道が、現地で自家の支配地確認のため、1545年越中般若野荘へ下向した際に当地の武家・荘民の違乱にあい殺害された実道の従者の墓として伝えられています。

中央の宝篋印塔は昭和44年秋に建立されたもの。そしてその周辺に五輪塔が多数あります。
五輪塔の存在は、多くは領主層の手によって建てられたと考えられていて、供養や墓石を目的として作られたものだそうです。

資料には塚の上に五輪塔の空風7個、火輪2個、水輪10個、地輪6個があるとなっていて、確かに確認できました。
また、水輪1個は石垣の中にあり、水輪の中には直径30cmばかりのものや、力強い薬研彫りの梵字バン(金剛界大日)の刻まれたものがあるとされていますが、刻まれたバンの文字が石の風化で確認できないのと、資料をあとで見つけたので石垣の確認はできていません。(今度ゆっくり探してみようっと。)
造立時期はおおむね南北朝期から室町期と推定されるそうなので450年は経っていることになりますね。
中世のものは市内では少ないので貴重です。


  • 史跡

2012年01月05日 14:08

■巡見使道・砺波市内

江戸幕府は各藩の政情および民情視察のため、ときどき特使を地方に巡見させたが、特に将軍の代替わりごとに目付役を出して監察させた。これを巡見上使、または廻国上使といった。
巡見上使は、使番(つかいばん)一人、小姓組番・書院番のもの二人、そのほか一行をもって組織し、おのおの専門にわかれて視察した。上使が藩につかわされることがきまると、藩に通達して、上使の接待・贈り物などについて厳しく制限し、あるいは禁止事項を示して、迷惑にならぬよう命じた。しかし藩では、巡見上使の報告が藩の将来に大きく影響するので、非常に心を労した。
加賀藩では上使の来意をうけると、早速算用場のうちに特別の係りを設け、藩の役人は勿論、十村役などまでを加えて接待の準備をさせ、上使の通る町や村の肝煎には上使が質問しそうな問題を書き上げた模範解答をつくって通知している。それは丁寧なものでボロを出さぬよう細心に注意している。その中には富山にあった磯辺の御庭(今の護国神社のあたり)の大きな築山を、神通川の水害除けであると答えよというのがある。
巡見上使の通る道はきまっていた。これを巡見使道という。越中の国へは、能登の羽咋から国境の臼が峰を越えて床鍋(氷見市)に入り、射水郡(氷見郡を含む)の西部を経て砺波郡を通り、再び射水郡に入り、婦負郡・新川郡を巡視して越後国へ向った。

(富山文庫10『富山の史蹟』より)


『小矢部市史』によると、主なルートは次の通り。
射水郡(床鍋 ― 小久米 ― 論田― 中村 ― 氷見― 窪 ― 海老坂 ― 守山)
砺波郡(岩坪― 佐賀野 ― 三日市 ― 田川 ― 今石動「官道」 岡 ― 戸出 ― 千代 ― 杉本新 ― 苗加 ― 福野 ― 在房 ― 宗守 ― 是安 ― 城端 ― 北野 ― 井口 ― 井波 ― 小牧 ― 金屋 ― 庄金剛寺 ― 芹谷 ― 増山)
射水郡(水戸田 ― 黒河 ― )
婦負郡(花木 ― 住吉)
新川郡(新庄 ― 野開 ― 常願寺川 ― 日置 ― 岩峅寺 ― 新庄間往復)
新庄から官道(北陸道)と越後に出ました。

『三州地理志稿』によると、井波→小牧→金屋岩黒→庄金剛寺→三谷→安川薬勝寺前→三合新村→芹谷野→福岡権照寺→宮森→増山→東保新から中田へ続くとあります。

巡見使道には、「隻堠(せきこう)」ともいわれる一里塚をつくったり、場所によっては松並木が道の両側につづき、のどかな風景があったそうです。
現在、三谷・薬勝寺前・三合などにこの旧道跡が遺存しています。
写真は三合(左:巡見使道 右:国道359号線)


※巡見使道は、時には巡検使道とも表わされ、『ふるさと文化財マップ』および標柱は巡検使道と表記されております。
ここでは『砺波市史』にならって巡見使道とします。


  • 史跡