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ふるさと学芸員の小窓

ふるさと学芸員のブログです。砺波市の「ふるさと文化財」とは、地域の財産として親しまれ大切にされている文化的財産のことです。このブログで少しずつご紹介していきたいと思います。
メール furubun001@gmail.com
ホームページURL http://blog.city.tonami.toyama.jp/group/furusato/

2013年10月02日 11:57




東保田中にはふるさと文化財に登録されている「浅草観音発祥伝承地」があります。

浅草寺の観音像の由来については、全国に数か所見られ、この東保田中も早くからその候補地の一つと伝えられています。昭和5年、寺から「越中国般若郷東保 俗称観音堂 当山観世音宝座給旧蹟認」との認定書をいただいたことから交流は始まりました。住民はこの御縁をこの先も永く受け継いでいってほしいと願い、碑を建て毎年観音祭りを行うなどして来られました。

ちょっと前の話になりますが、その東保田中で観音米を生産していると聞きました。
自治会長で営農組合理事の吉田さんに観音米について聞いてみると、観音米は特別製法のコシヒカリで浅草寺との交流の中で近年誕生したものでした。
現在は作付面積の約6%を観音米として生産し、東京のお米屋さんのみで販売しているのだとか。(写真は米袋に貼られるラベルです)
既に「となみ観音米」としても商標登録されているそうです。
「世の中の流れでおいしい米づくりをしたい」という吉田さんの言葉から、食の安心安全性、農業のあり方、地域交流の重要性など大切なことがいっぱい詰まっていることを知りました。
いろんな人、いろんな場所で交流を深めることでアイデアが生まれ、そのアイデアを活性化し繋げることで、何ものにも代えがたい財産になっていくことをあらためて教えてもらった気がします。

伝承地からの話題でした。


  • 伝承地

2011年11月30日 12:25



■浅草観音発祥伝承地・砺波市東保ほか

東京台東区浅草といえば浅草寺!全国的にも有名なお寺ですね。
特に雷門から仲見世あたりは活気があり年中賑わいをみせていますが、実はここのご本尊、もとは東保の田中にあった寺の観音像だと伝承があります。

浅草寺のご本尊である観音様の由来は、飛鳥時代に遡り、隅田川で漁師の兄弟の網にかかり、これを調べた人が(地方の行政責任者)が私宅を寺にして供養したことから始まったとされています。
一方、昔、東保の田中にあった常福寺(天台宗)から、行商人が寺の観音堂にあった1寸8分の黄金の観音様を持ち出し、それがまた盗まれ、盗んだ盗人が遭難し観音様は流されて隅田川で漁をしていた漁師の兄弟に拾い上げられたと古くからの言い伝えが残されています。

浅草寺のご本尊は秘仏とされていて誰も見ることが出来ませんが、この二つの結びつきを浅草寺に認めてもらい、田中は浅草観音発祥の地の一つとなりました。昭和5年、これを記念して旧跡地に石碑が建立され、石柱の上部はこの時浅草寺からもらい受けた観音様の分身がはめ込まれました。
以後80年経った今でも『観音祭り』は行われ、浅草寺ともさまざまな形で交流が続けられています。ちなみに『浅草寺史談抄』によれば、発祥の地の伝承は田中のほかに埼玉県、静岡県、奈良県、愛知県にもあるといわれ、歴史のロマンを感じます。



今年も8月20日に『観音祭り』は行なわれ、参加された30余名の皆さんは熱心にお参りされました。お参りが終わると、供物が配られ、その場で歓談時間を設けて用意された手料理やスイカ、地元生産の宮崎ぶどうを手にとり、労いの言葉を掛け合う姿がみられました。
午後は同じ敷地内で庚申塚の供養行事があるそうですが、行事が重なっても皆さん一丸となって旧跡保存に努めておられます。




笑顔がたくさん!いい雰囲気でした。
そして祭りの時間を教えてくれたT君、本当にありがとう。


  • 伝承地

2011年08月19日 10:56



■伝長尾為景塚・砺波市頼成新

頼成新、和田川導水路縁の田んぼの中に古くから伝わる為景塚がある。塚の中央には昭和44年春に佐藤助九郎氏が詠んだ句「紅花や猛将女傑の夢のあと」 為景塚供養と彫られた石碑がある。

当時の歴史は、一向一揆の勢力が大きくなり、神保慶宗の連合軍と手を組んだ為景の父越後守護代長尾能景は、「芹谷の合戦」(般若野合戦)で 一向一揆方と対決し討死した。その後、為景も越中に侵攻するなど越中国は戦乱が続いていた。為景の越中攻めは以下のとおりである。

永正16年(1519) 越中に侵入。神保慶宗の本拠二上城を囲んで、
             いま一歩のところで失敗に終わった。
永正17年(1520) 再び攻め込み、遂に慶宗を新庄に敗って捕斬、
             父能景を敗北、戦死に追い込んだ芹谷の合戦
             の宿怨をはらしたといわれる。
大永 元年(1521) 越中侵入。その年、為景は畠山氏よりその協
             力によって新川郡の守護代に補されたという。
(塩照夫著 戦国のロマンより)

為景のそれ以後についてはいろいろの説がある。「病死説」と「戦死説」である。『越中志徴』には、宝暦14年古蹟調書に、為景塚は頼成新村領内にあり、そこは上杉為景が討死した所であるとしている。『上杉謙信公年表』には「天文5年丙申(1536)12月24日父為景死す、林泉寺に葬る」として、この戦死を否定している。林泉寺にも為景の墓があり、今のところは「病死説」が定説とされている。

為景塚から東方180メートルには芹谷の合戦(般若野合戦)で討死した父の能景塚がある。海音寺潮五郎原作「天と地と」のNHK大河ドラマで一躍有名になった千光寺には、天文15年(1546)、為景の子上杉謙信が訪れ父を供養している。その際の位牌と献刀は現存している。


  • 伝承地